夜が明ければきっと新しい日々



空を見上げれば、ほんわりと小さな白い雲が浮かんでいた。
夕暮れの色に染まった空は、あっという間にその様子を変えていく。陽の光が薄れていくたびに、少しずつ肌に触れる風も冷たさを増していった。

「……ま、12月も終わりだしな」

北から吹いてくる風が暖かかったら、そのほうがおかしい。そう結論を出して、グリーンは小さく息を吐く。
吐き出された息は、白かった。あたりの気温が、ますます下がった証拠だ。

「さっみぃ……」

冬なのだから、暖かいわけがない。やはり自分にそう言い聞かせて、空を見つめていた視線をわずかに動かす。
――視界を掠めたのは22番道路の向こう、チャンピオンロードを越えた先にある、常に白く染まった雪山。シロガネ山と呼ばれるあそこは、こことは比べものにならないくらい、冷えているだろう。氷点下何度になっているのか、考えたくもない。

「……ん、やっぱ無理。やめやめ」

ほんの一瞬だけ頭の隅に浮かんだ血迷った考えを、即座に否定する。
カントー最強のジムリーダーなどと言われていようと、グリーンは紛れもなく人間だ。まだ、命は惜しい。
もしかしたらポケモンの助けを借りられるだけただのクライマーよりは有利なのかもしれないが、それでも山男すら避けて通るような雪山に、用事もないのに近づこうとは思わない。
……本当に用事がなければ、本気で近づかないのだが。不本意ながらもすでに何度も登頂を果たしていることについては、あまり突っ込んで欲しくなかった。
そして、用事があったとしても、さすがに今日は勘弁だ。山頂の様子を想像しただけで、全身に震えが走る。寒すぎて。

「あいつ、本気で人間やめかけてるよな……」

そして、もう何度目になるかわからないつぶやきとともに、ため息ひとつ。
とりあえず。
明日からは新しい年、らしい。



今年の年末は、なんだか妙にせわしなかった。
クリスマス前後になんだかんだとジムの仕事以外の用事を入れてしまったグリーンの自業自得でもあるのだが、とにかくそのしわ寄せもあって、もののみごとに仕事一色で塗りつぶされていたからだ。
基本的に年中無休(のワリには、ジムリーダーの一存で勝手に臨時休業になっている場合も多い)のジムだが、さすがに年始年末は定休日となっている。となると、溜まってしまった仕事をなんとか片づけた後に待っているのは、大掃除。
……というわけで、今日は一日、ほぼ大掃除で潰された。まだ太陽が空にかろうじてひっかかっているうちに帰路につけたのは、じつは奇跡に近い。

「私たちだって、さすがに正月くらいは実家に帰らないとなんですよー!」

と、トキワジムの誇るエリートジムトレーナーたちがわめいていたのは、グリーンも覚えている。そのわりには、仕事をさぼって12月最後の日まで仕事をするハメになったジムリーダーを見捨てることはせず、文句を言いながらも付き合ってくれた。なんだかんだ言って、トキワジムのトレーナーたちは年下のジムリーダーに甘い。
グリーンも、年末はマサラタウンの実家で姉のナナミと、あとお隣の小母さんと共に過ごす予定だ。日頃はトキワジムに泊まり込んでしまうことも多いが、基本的にイベント好きなグリーンは、そういうときはきちんと家に帰る。
……ほんの一瞬、相変わらずシロガネ山に引きこもっている幼馴染みのところへ足を運ぶかと思わないでもなかったが、それは現実的な問題で断念した。どう考えても、寒い。
そしてグリーンが行かない以上、その引きこもり――レッドが自発的に山を下りてくるわけもない。クリスマスに無理矢理下山させたばかりだから、何か言ってみたところで端からムダな気もした。

(……こないだ、顔見たばっかだろ)

それなのに、心の隅でひっそりとしつこく主張し続ける気持ちを殺しきれなくて、グリーンは心の中で舌打ちする。
3年ほど会わない(というよりは会えない)時期が続いていた頃に比べれば、所在が明確になっているだけ、今は幾分かマシな状況だ。
肝心の、その所在地の場所が場所なだけに不安ばかりつきまとうのが玉に瑕だが、心配なら顔を見に行けばいい。雪山の頂上などというとんでもない場所なせいでそうちょくちょく行けはしないが、まったく足を伸ばせないわけでもない。
それに相手は3年もの間、あの場所でしっかり生き抜いてきた、人間離れしたヤツなのだ。人間の感覚で心配したところで、意味などないのかもしれない。
……なのに、わかっていても気になるのは、会いたくなるのは、たぶんグリーンのとっても個人的な感情故、だ。
幼馴染みで、それでいてライバルで、おそらくは家族以外で誰よりも長い時を一緒に過ごした相手。
会わなかった3年の間に出来てしまった溝を、埋めたいのかもしれない。
なるべく、早く。早急に。

(や、溝らしい溝があるわけじゃねえけどさ……)

3年も会っていなかったにしては、じつに自然だと思う。
ただ、やはり3年という空白の時間は、十代前半の少年たちにとってかなり大きなものだった。成長期のこの時期に、3年経ってもまったく変わらないなど、ありえない。
少なくとも、背が伸びた。ほんの少し、声が変わった。
レッドの中身はさほど変わってなさそうだが、それはグリーンがそう思っているだけかもしれない。元々、レッドが何を考えているかなど、わかった試しがないのだから。
だから、会いたくなるのか。どこがどう変わったのか、知りたくて。

「ばっかじゃねえの」

主に、グリーン自身が。
とりあえず、寒風吹きすさぶ道のど真ん中に突っ立ってぼんやりしていたせいか、バカみたいに寒い。さっさと帰って、暖まるに限る。
最後に小さくため息を吐くと、グリーンはまだしぶとく脳内にこびりつく思考を振り払うように頭を振ってから、家路をたどるために歩き出した。
トキワシティとマサラタウンを繋ぐ1番道路は、草むらの多い道だ。ただ、トキワシティ側から歩いていく分には段差をうまく使うだけでかなりショートカットできるので、さほど時間もかからない。
少しばかり風が冷たいとはいえ、たまには歩くのもいいだろう。
特に、今日みたいに少し頭を冷やしたいような日には。

「きなこ餅、食いてえな……」

とりあえず、餅にありつけるのは明日、年が明けてからだろう。
そんなどうでもいいことを考えつつ、のんびりと歩を進めていた時だ。

「わっ?」

いきなりがさりと音を立てて、派手に揺れる草むらから何かが飛び出したのは。

「……ポッポ?」

ばさばさと、慌てたように飛び去っていくのはポッポの群れだ。
そう、群れだった。1匹や2匹じゃない。おそらくは逃げていった、と表現するのが正しいだろう、そんな様子。

「なんだあ?」

とりあえず、グリーンは何もやっていない。手持ちたちも、今はおとなしくモンスターボールの中だ。
さて、では一体何が起こったのか。

「……って」

はたして、運がいいのか、悪いのか。
ポッポが群れをなして逃げていった理由は、すぐにわかった。
あんまりわかりたくなかったが、わかってしまった。なぜか背後からばさりと重々しいはばたきが聞こえてくると同時に、背中にものすごい勢いで風がぶつかってきたからだ。
風に押され、そのまま前につんのめりそうになりながらも、何とか持ちこたえる。どこの誰か知らないが、人のすぐ後ろ、数メートルも離れていないところにポケモンを着地させるとはどういうことだ。はた迷惑にも程がある。

「おい! 一体、なん……」
「見つけた」

――なのに、怒りのままに勢いよく振り向いたグリーンの口から、その文句の続きが吐き出されることはなかった。
正確には、文句を言うどころではなかった。

「……レッド?」
「やあ」

グリーンに向かって軽く手を挙げて挨拶をする、あまりにも予想外の顔を目の当たりにしてしまったから。

(なんだこりゃ)

軽々とリザードンの背から飛び降りたシロガネ山の生きた伝説もとい引きこもりは、目を丸くしているグリーンの様子に気づいているのかいないのか、リザードンの背を優しく撫でてからモンスターボールに戻している。
つまり、すぐにここから立ち去る気はないらしい。……たぶん、だが。

「……なにやってんの、おまえ」

とりあえず。
なんとか口にできたのは、そんな間の抜けた問いかけだった。

(ああああ、バカか俺。レッドにそんなこと聞いたって、どうせ返ってくんのは「空を飛ぶで飛んできた」あたりが関の山じゃねえか!)

自分で自分の発現に突っ込んでみても、もう遅い。なにしろ、冷静なのは頭の中のほんの一部でしかないからだ。その冷静さは、動揺しまくっている口に何の影響も与えてはくれなかった。
というか今さっき、レッドは「見つけた」と言わなかっただろうか。

(で、何を?)

もちろん、さっぱりわからない。
しかもレッドは、それでなくてもわけがわかっていないグリーンを、ますます混乱させるようなことをさらりと口にした。

「誘拐しにきた」
「は?」

意味がわからない。
グリーンは、若くてもトキワジムのジムリーダーだ。誘拐などという物騒なことをやらかそうとしている犯罪者予備軍がいるなら、街の治安を守るためにも放置しておけない。
……なのだが、目の前の人物は基本的に、そういうことに手を出すようなタイプではなかった。
なので、一応聞いてみることにする。

「誰を」
「グリーンを」
「へ?」

――聞いてみたら、ますます理解しがたいことになってきた。大体、グリーンを誘拐しにきた、というのはどういうことだ。
もしかして、冗談なのか。それとも、ツッコミを期待したボケなのか。

「俺にもわかる言葉、しゃべってくんねえ?」
「そのままなのに……」

あまりの意味不明さに気が遠くなりつつもそうお願いしてみたら、ものすごく不満げな顔をされた。

(なんなんだ、こいつ)

文字通りそのままだとしたら、本気でわけがわからない。
グリーンを誘拐して、一体どんな利点があるというのか。
もしかして、トキワジムのジムリーダーにでもなりたいのだろうか。もしレッドがやりたいというのならべつにその座を譲っても構わないのだが、たぶんそういうわけでもないだろう。
リーグチャンピオンの座を蹴って、自由と強さを求めてふらりと旅に出たようなヤツが、そんなものに固執するとも思えない。

「つーか、俺を誘拐してどうすんの。金なんかねえぞ、うち」

とにかく。
レッドが自発的に説明してくれそうもない以上、グリーンの口先三寸でなんとか答えを引き出すしかないだろう。
こんなときに限って、レッドの瞳はなにも感情の色を乗せていない。ほんのわずかな表情の変化と瞳の様子で、ある程度レッドの言いたいことは把握できるとはいえ、さすがに完全に無表情だとどうにもならなかった。
とりあえず、レッドに誘拐されたところで何も危険はない。と、思う。おそらく、極端に少ないレッドの語彙の中では『誘拐』という言葉が、レッドのやりたいことにいちばん近い意味を持っていたのだろう。
なので、ものすごく投げやりに聞いてみたら、レッドは目を何度か瞬かせてから首を傾げる。

「べつに、お金には困ってないよ。挑戦者がくれる賞金のおかげで」
「あ、そ。じゃー、何が目的なんだよ」
「グリーンと一緒にいたいだけなんだけど」
「は?」

――今度こそ、グリーンはぽかんと口を開けた状態のまま、固まった。
一応、『危険はない』という判断は、合っていたようだが。
……そういう答えが返ってくるとは、思っていなかった。

「……おい?」
「誘拐したら、とりあえず一緒にいられるから。べつに、どこででもいいんだけど」

気のせいでは、ないと思う。
そう口にしたレッドの表情は、至って真剣だった。
……冷静に考えれば、かなり支離滅裂な内容だったとはいえども。

「いや、それ、誘拐する必要あんの?」
「うん、たぶん? とりあえず、グリーンの意思は無視しようと思って。誘拐だし」
「…………」

よくわからないが、レッドの中では筋が通っていたようだ。
やはり、相当かっとんではいたが。

(バカじゃねえの、こいつ)

細かいことを言えば、『バカ』というのも間違いなのかもしれない。
確かに頭が良いわけではないだろうが、とにかく発想が斜め上だった。しかも、その斜め上の発想をためらうことなく、実行に移す。
しかも、たとえそれがおそろしく難易度の高いことだとしても(なにしろ発想が斜め上で、常識というものから逸脱しているから)、なんとかしてしまうから始末に負えない。
つまり、おそろしくはた迷惑なヤツだということだ。

「はああぁぁぁ……」

そして、結果的に。
グリーンが、おそろしく深いため息をつくハメになる。

「グリーン?」
「……おまえさ」
「なに」
「もう少し、わかりやすい言葉しゃべれよな……」
「グリーンがわかってくれれば、それでいいよ」
「俺にもわかんねえよ、今のは!」

もう、今日は何度ため息をついたか、わからない。
もしかしたらこの先もずっと、この無表情でおとなしそうに見えて天上天下唯我独尊な最強トレーナーの通訳をしていくことになるのだろうか。
しかも、それがあまり嫌じゃないのはどうしてなのだろうか。
理由はよくわからないが、レッドがグリーンと一緒にいたいと言ってくれたからだろうか。
……そんなセリフ、物心ついてから初めて聞いたような気もするが。

(俺、こんなお手軽なヤツだったっけ……?)

まあ、仕方がない。
それでも嬉しかったのだから、やっぱり仕方がない。
それに、グリーンだってそう思っていたのだ。
――どうせなら、一緒に年を越せればいい、と。

「……とりあえず、マサラに帰ろうぜ。今日、おばさんもウチにくるから」

だから、レッドの腕をつかむ。
誘拐しにきたと言っている以上、逃げ出したりはしないだろうが、一応念のため。

「母さんも?」
「おまえが帰ってこなくなってからずっと、年越しはおまえんちと一緒にやってんだよ」

だって、そうしなければレッドの母は、ひとりきりだ。
レッドにも、それはわかっているのかもしれない。少しだけ目を見開いたものの、すぐにいつも通りの無表情に戻る。
そして、のんびりと口を開いた。

「そうか、母さんいるのか。怒られそうだなあ」
「少しは説教されとけ。つーか、なんで下山するついでにちゃんと家帰らねえんだよ、おまえ」
「なんとなく」

たまに下りて来たときはトキワジムやグリーンの家に寄っていくのに、なぜ自分の家に帰らないのか、グリーンにはよくわからない。
あまりにも長い間家に帰っていなかったから、照れくさいのか。それとも、怒られるのが嫌なのか。

(こいつのことだから、まだ目的果たしてないから、とでも言うんだろーけどな)

強さを極めるなんてそんな目的、果たせるわけがないのに。
強さに、極限なんてない。ジムリーダーとして得た数々の経験が、グリーンにそう思わせるようになった。
なぜなら、強さというのは『力』だけに限ったものではないから。
――この幼馴染みは、グリーンのただひとりのライバルは、おそらくグリーンよりも多くの強さを知っているのだろうけど。

「……ねえ」
「んだよ?」

いつのまにか横に並んでいたレッドが、ぽつりと呟いた。
まだレッドの腕をつかんだままだったことに気づいて、グリーンはそっと手を離す。逃げだそうとする素振りはなさそうなので、つかんでおく必要はないと判断したからだ。
……それを、待っていたかのように。
今度は、レッドが腕を伸ばす。

「今日、グリーンの部屋に泊まってっていい?」

そして、グリーンの手を握った。
――冷たい、レッドの手。
この真冬に半袖のまま空を飛べば、手のひらが氷のように冷え切るのも当然で。

「……誘拐しに来たんだろ?」
「うん」
「じゃあ、勝手にしろよ」

この冷たさでなぜちゃんと手を、指を動かせるのか、それがいちばん不思議だったけど。
冷たすぎる手を少しでも温めてやろうと、繋いだ手にぎゅっと力を込める。
それに、気づいたのか。
それとも、決して愛想がいいとはいえないグリーンの返事に込められた本音を、察したのか。

「そうする」

レッドが、嬉しそうに笑ったから。
グリーンも、小さく肩をすくめて――少しだけ、口の端を上げてみせた。


End.