本日晴天なり、湿度25%

「ねえ」
「うおわっ!?」

突然、気配を消して背後から忍び寄ってきた何者かに声をかけられて、グリーンはかなり素っ頓狂な声をあげた。
ちなみに、ここは天下の公道でもなんでもない。まぎれもなく、マサラタウンにあるグリーンの自室だ。
しかも、この部屋は2階にある。常識的に考えれば、外からこの部屋へとたどり着くためには玄関を通る必要があり、玄関を通ってここまで場合、リビングにいる姉が何かしら反応を示すはずだった。つまり、その反応がなにひとつなかった以上、この来訪者の存在に姉が気づいていない、ということになる。
ただ一応、グリーンにはこの突拍子もない来訪者の心当たりがあった。
というか、こんなことを平然としでかす知り合いは、グリーンの決して狭くはない交流範囲の中でもたった一人しかいない。
着替えの真っ最中、まさに上半身を覆っていたパジャマの上を脱いで手にぶらさげた状態のまま振り向けば、案の定そこには想像通りの顔が首を傾げている。
じつにとんでもない登場の仕方をしておいて、グリーンの驚きようを不思議がっているその様子まで、想像通りだ。
その人物の背後では、部屋の窓が全開にされている。
吹き込む真冬の冷たい風にあおられて、申し訳程度に下がっているカーテンがひらひらと、それはもう所在なげに揺れていた。

「……おい、レッド」
「なに」

とりあえず、当たり前だが寒い。
1年のうちでもいちばん気温が下がるという2月の真っ直中、上半身裸の状態でエアコンもつけずに窓を全開にされれば、誰だって凍える。早急に、なんとかして欲しかった。
だが、そんなことをマイペースにもほどがある幼なじみ兼ライバルに、今さら言い聞かせてみたところで効果などない。
大体、そんな常識がこいつに通用するのであれば、まず極寒のシロガネ山に何年も篭もってなどいないだろう。それも、半袖で。

「窓から入ってくんのやめろって、何度言わせんだおまえ。つーか寒ぃんだよ、窓閉めろよ! オレはおまえと違って温感マトモなんだよ、寒風吹きすさぶ中でこんな格好してたら風邪ひくっつーの」
「……それより。なに、今の」
「は?」

伝わるとは端から思っていないが、床に放り投げたパジャマの上着のかわりに手に取った長袖のシャツを頭からかぶりながら、脳裏に浮かんだ文句を衝動のままにつらつらと並べる。そうすればそのとりとめのない文句をぶった切るように、なんだか不機嫌な声がした。
手を袖に通しつつ、グリーンがレッドの方を見遣れば──どうひいき目に見ても、機嫌がいいとは解釈できない顔がそこにある。

(あれ、おっかしーな)

先刻振り向いたときには、そこまで機嫌が悪くなかったはずだ。どちらかといえば、レッドにしては機嫌がよさそうに見えた気さえする。
大体、そうでもなければレッドが山を下りてくるはずがない。いろいろと常識はずれなこの雪山の引きこもりは、いくらグリーンが口をすっぱくして用がなくてもたまには下山してこいと訴えたところで、見事に右から左へとその説得を聞き流すような性格をしているからだ。
つまり、レッドが重い腰を上げてここまで来た以上、そして2階の窓から不法侵入を果たすという常識では考えられない行動を起こしている以上、おそらくグリーンに何か用があったのだろう。

(食料がなくなったとか、ポケモン用の薬がなくなったとか、もしくはなんかあったかいモンでも食いたくなったとか?)

レッドの自分に対する用事の候補を思い浮かべようとして、それしか思い浮かばなかった自分自身に、これ以上ないくらい今さらではあったものの、グリーンはほんの少しだけ哀れみを覚えた。
一応これでも、グリーンとレッドは恋人同士だ。『一応』という注釈を外せる日がいつやってくるのかはまったくもってわからないが、これでも数年越しの付き合いである。
ただ、恋人という関係でいる期間よりも、幼なじみでライバルだった時期のほうが圧倒的に長かった。そのせいか、恋人同士の関係というものが今ひとつわかっていないところがある。少なくとも、グリーンはそうだ。
もちろん、グリーンもレッドもいわゆるハイティーンと呼ばれる世代に突入してしまっているわけで、年齢相応の衝動なんかも当然あったりする。そのあたりは恋人同士、なにしろ相手が山ごもり真っ最中(しかもそろそろ5年目あたりだったような気がする)だったりするのでしょっちゅうというわけにはいかないが、それなりにきちんとこなしていたりした。最初こそ知識がなくて戸惑ったものだが、慣れてしまえば性別が同じというのはけっこう気軽なもので、正しい恋人同士の関係というものを理解してはいないまでも、そのあたりはけっこう満たされている。たとえ、本当に相手──レッドに恋人として必要とされているのかどうか、その肝心な部分がわからなくても、だ。
ただ、レッドがどう思っていようが、グリーンにとってレッドは誰よりも好きで大切な、たったひとりの恋人だった。
つまり、そのレッドが目の前で不機嫌全開な表情のまま眉を寄せ黙りこくっていれば、当然気になる。気にしないなんて、無理だ。
とはいえ、先ほどまで機嫌がよさげだったのに突然急転落下した以上、その原因がグリーンにある可能性は高くて。

(オレ、なんかしたっけ?)

正直なところ、何かした覚えはない。
大体、レッドの顔を見るのも2週間ぶりくらいだ。ジムの仕事が忙しかったのと、シロガネ山に足を伸ばそうとした日に限ってなぜか雪が降っていたりして、ことごとくタイミングを逃していた。

(2週間以上、オレに会えなかったから不機嫌とか……いや、ありえねぇ)

大体、そんなことで不機嫌になるくらいなら、そもそも山ごもりなどしていないに違いない。それにレッドというのは妙に行動力だけはある人間なので、会いたいと思ったならじっと待ってなどいるはずもなかった。こうやって、連絡もなにもなしに突然押し掛けてくるだけだ。
そして、グリーンはそれを喜びこそすれ、迷惑に思うことはほとんどない。さすがに窓から不法侵入を繰り返すのはやめてほしいと思うが、それくらいだ。

(で、レッドはなんで不機嫌なワケ?)

そして、結局はそこに戻ってくる。

「今の? って、なにが。どれが」
「…………」

よくわからないが、何かレッドの気にくわないものでもあるのだろうか。とはいえ、先ほどまでグリーンが手にしていたのは単なる脱いだばかりのパジャマの上着で、それを放って手に取ったのは、今着ているシャツだ。どちらも決して目新しいものではなく、それなりに着慣れたものだった。
他に身につけているのは、やはり着慣れたジーンズだし、上着と一緒に床へ落ちているのはやはり着慣れたパジャマのズボン。レッドが不機嫌になるような要素は、どこにもない。

(あーあ。よけい、機嫌悪くなるだろーなぁ)

どれについて言われているのかわからないことを認めるなんて、いろんな意味でやりたくないが、わかったフリをして話を続けるのは自殺行為だった。レッドは変なところで鋭いので(きっと本能だ)、そんなことをすればすぐにバレる。そして、ますます機嫌が悪化する。
わからない以上、早めに降参してしまったほうがいい。

「てか、マジでわかんない。教えて」
「…………」

全面降伏、ホールドアップの体勢を取れば、足音も立てずに近づいてきたレッドが無言のまま手を伸ばしてくる。

「え?」
「これ」
「うわっ!?」

その手は、なぜかグリーンが着ていたシャツの襟元をつかむと。
そのまま力一杯、横に引っ張った。
それはもう、容赦なく。

「ちょ、レッドおまえなにすんだ!? 伸びる! シャツ伸びるから!!」

襟ぐりが大きく開いているそのシャツは生地が柔らかめで、それなりに伸縮性もある。だから、ぎりぎりと左肩がむき出しになるまで引っ張られても首はそこまで苦しくないのだが、シャツのほうが無事ではなくなりそうだ。

「これ、なに」
「は? って、ぎゃっ、いてえよ!!」

そして次の瞬間、左肩の後ろのほうに痛みが走った。
よく見えないが、レッドの指がむき出しになったグリーンの肩をつかんでいる。さほど力はこもっていないものの、レッドの指が触れている部分がチリチリとした痛みを訴えていた。引きつれるような、治りかけの傷が開くような感覚。
なぜ、触れられただけで痛みを感じているのか。そこに、元から傷があるから。
そこ──グリーンの左肩、それも背中側にあるのは、爪の痕だ。
なぜそんなところに、爪でつけた傷痕がついているのか。

「爪の痕、だよね」
「ああ……これか? いや、かゆくてさ……最近、やけに乾燥してるだろ? ちょっと生地が固いシャツ着たら、どーにもこーにも我慢できなくて……つい」
「……掻いたの? 自分で?」
「他にどーやって掻くんだよ……つーか、そんなひどいことになってっか? そこ、自分じゃあんまり見えないんだよなー……風呂入ると染みるから、傷はついてんだろーなって思ったけど」
「…………」

気のせいだろうか。レッドが放っていた不機嫌さが、目に見えて薄れていく。

(つまり、なんだ?)

もしかしてレッドは、グリーンの背中に爪痕がついていたのを見て、不機嫌になったのだろうか。
そういえばレッドが現れたとき、グリーンは窓に背を向けて着替えていた。背中を見るのは、じつに簡単だっただろう。

「もしかして、オレが浮気したとでも思った?」
「グリーンにそんな甲斐性あるなんて、最初から思ってない」
「…………」

あんまりな言い草ではあったが、事実なので反論はしないでおいた。
大体、グリーンは他人にさほど興味を抱いてなどいないのだ。グリーンが感情を揺さぶられる相手というのはごく限られていたし、恋愛なんて面倒な感情に振り回されて右往左往してみたり、そんな感情を伴ってするべき行為を赤の他人とする気など、端からない。
生活力や経済力、そういった面での甲斐性はそれなりにあるはずだ。まだ15歳にもならないうちからカントー最強と呼び声も高いジムのリーダーを勤め、その評判を落としたことはない。
ただ、確かに浮き名を流したことは一度たりとてなかった。誘惑がなかったわけではなく、グリーンが一切興味を示さなかっただけだ。
そういった面に限っては外見を見事に裏切って、グリーンはかなり一途で純情だと言えるかもしれない。いっそグリーン自身が笑いたくなるほど、その手の衝動や感情はレッドにしか向いていなかった。

(言葉はぶっちゃけひでーけど、一応信用されてたってコトでいいんかな……でも、本気で信用してたらそもそも不機嫌にならねーよな……ま、いいか。もう)

とりあえず、グリーンはそう自分自身に言い聞かせる。
気がつけばレッドの機嫌も浮上していたようだし、そこはあまりこだわるべきところではないような気がしたからだ。

「でも」
「でも?」

レッドの指が、そろりと傷痕を撫でていく。
元々、肌が必要以上に乾燥したかゆみに負けてついた傷だ。そんな部分を撫でられたら、どうしてもむずがゆくなる。
さらに、微妙に痛い。レッドに見られる前にきちんと治しておかなかったことを、微妙に後悔する。

(ちゃんと薬塗っときゃよかった……)

そんなことを思っても、時すでに遅しで。
だが、そんなグリーンの後悔は、その直後に霧散した。

「ぼく以外がグリーンの肩に傷つけるなんて、許さない」
「いや、それ、オレが自分でつけたやつだし……?」
「それでも、だめ」
「んなこた言われても……かゆいモンはかゆいんだって。ダメっつーならこの乾燥、なんとかしてくれよ」
「シロガネ山、いつも雪降ってるから乾燥してないよ?」
「アホか! 乾燥以前の問題だろーが!」
「じゃあ、かゆくてもがまんして」
「なんで」
「だって」
「……っ!?」

いつのまにかグリーンに抱きつくような体勢になっていたレッドが、爪痕に唇を寄せていた。
傷口に、舌を這わす。乾いた指先が触れた時とは違い、濡れた感触が心地良い。
乾燥しきっていた肌は、水分を求めていた。少しだけ染みたせいか痛みは走ったものの、かゆみが少しだけおさまる。
無意識のうちに「もっと」と言いかけて、グリーンはかろうじて自制心を働かせた。今は朝っぱらで、さすがにそういう雰囲気じゃない。というか、そういう雰囲気に持っていってはいけない。
だが、そんなグリーンの常識的な努力は、見事に粉砕されることになる。

「グリーンに爪の痕をつけていいのは、ぼくだけだ」

その理不尽な呟きに、隠しきれていない独占欲を感じて。
困ったことに、グリーンが嬉しさを感じてしまったからだ。
──おそらくは恋人という関係になってから初めて、レッドから向けられている感情の強さを実感できたからかもしれない。



「ところで……レッド、おまえ今日なにしにきたの?」
「……コトネが、今日バレンタインだからって教えてくれて」
「ああ……なるほどな。チョコ、たかりにきたのか」
「違わないけど……違う」
「へ?」
「これ、あげる」
「……は? え、チョコ……? って、えええええ!?」
「好きな人にチョコをあげる日だって、聞いたから」
「え、いや、それはそうなんだけど、いやでも……ど、どーしたんだよ? 去年はスルーだっただろ」
「……去年は、終わってたから」
「へ?」
「気がついたら、過ぎてた」
「……ま、レッドならそーだわな……」
「だから、今年はリベンジ」
「そっか。その……ありがとな、レッド。ホワイトデー、期待してろよ」
「うん。……かわりにグリーンがもらったチョコ、全部食べてやろうかって思ってたけど、やめとく」
「べつに、やるよ。チョコくらい、全部」

いちばん欲しいものを、もうもらってしまったのだから。
それ以外は、もういらなかった。


End.