蚊帳の外
「あれ、レッドさん? こんにちは、めずらしいですね。だいぶ久しぶりじゃないですか?」
「……グリーンは?」
「残念、リーダーならいませんよ。セキエイにお呼び出され中です」
指摘された通り、久しぶりに訪れたトキワジムで、そんな歓待を受けた。
にこにこと非の打ち所のない笑顔で、モンスターボール片手にジムリーダーの不在と行き先は告げたのは、たしかこのトキワジムに所属するエリートトレーナーのひとりだ。
名前は覚えていない。ただ、いつもトキワジムを訪れるたび、必ず目にする顔のような気はしている。このトレーナーの持ち場がジムに入ってすぐ、挑戦者であればまず最初に対戦することになる場所だからかもしれない。
というか、間違いなくそうだろう。ここで毎回見ているから、名前は覚えていなくても顔と声は覚えていたのだ。そうやって、自分自身を納得させた。
なぜ、わざわざそんなどうでもいいことを納得させなければならなかったのか。
……納得させずにはいられなかったんだから仕方がない。
「じゃあ、しばらく帰ってこない?」
とりあえず、目当ての人物が不在なのはわかった。
トキワジムのジムリーダーを務めるグリーンがいないなら、ここにいる理由もない。踵を返しかけて、でも一応それは確かめておく。
それをわざわざ確かめないといけないことに、少しだけ精神がささくれた。
「いえ、もうすぐ帰ってくるんじゃないですか。他の場所ならともかく、今日はセキエイですからね。寄り道せずに帰ってきますよ」
「……ふうん」
返ってきた答えが、ますます面白くない気分にさせる。自分で聞いたくせにとは思うが、思ってしまったものはやっぱり仕方がない。
止める間もなく、気分はどんどん悪いほうへと傾いていく。いっそのこと最低まで落ちきってしまえばいいと、マイナス方面に開き直った。
まるで、他人事みたいだ。自分のことなのに。
「一緒に行かなかったの」
「へ、なんでです?」
その結果、口をついて出てきたのはそんな問いかけだ。否、どちらかといえば確認だったのかもしれない。
だけど、問われた相手には意図が伝わらなかったようだった。目の前で、ぱちぱちとせわしなく目を瞬かせている。
仕方がないから、もう少し詳しく説明することにした。
話が伝わらないことには、慣れている。グリーン曰く、ぼくは致命的に言葉が足りないから、相手に意図が伝わらないらしい。
べつに、どうでもいい人間相手に、意図なんて伝わっていなくてもよかった。正確には、グリーンにさえ伝わっていればよかった。それに人間には伝わらなくても、ポケモンには伝わるのだから困ったりしない。
なのに、どうして今、こんな努力をしているのか。
答えは簡単だ。
「グリーンがここにいないときって、大体きみもここにいないから」
「ああ、そういうことですか」
納得した、とばかりに頷かれて、眉間にしわが寄った。
名前も知らないこの人は、トキワジムの中ではいちばんグリーンに近いところにいる。
トキワのジムリーダーがジムトレーナーと近しいのは当然、同じ職場に詰める人間の仲が険悪なようでは先が思いやられる。いくらなんでも、それくらいの常識は持ち合わせいた。グリーンが快適に仕事をこなすために必要なものだ。
仕事仲間であるのなら、気にしない。グリーンがめずらしく他人を信用している、そのことに少し驚きはするものの、それだけですむはずだった。ぼくには経験がないから実感はわかないけど、組織のトップが部下をかけらも信用できないのは、たぶんまずいんだろうし。
それはわかっているのに、妙に気にくわない。それはきっと、この人のグリーンを見る目が、他のトレーナーとは違うからだ。
「あれは、脱走癖と放浪癖のある我らがリーダーを連れ戻しに行っているだけです。放っておくと日が暮れても戻ってこないこと、ありますからね。今日みたいに行き先がはっきりしてるなら、探し回る必要もないんで」
「ふうん」
「本当に、しょうがない人ですよねえ」
口ではそう言っていても、目は笑っている。
しょうがないと思っているのは、本当だろう。ただ、それ以上に慈しみとか愛しさとか、そういう感情が浮かんでいた。
それが、ぼくの心をざわつかせる。
この人は、ぼくとは違う。グリーンはぼくのものだと、そう主張しているわけじゃない。
むしろ、この人がグリーンを見る視線は、ナナミさんのものに近い気がする。決して同じではない、でも近い。だから、よけいに焦るのか。
グリーンを警戒させずに、奴に近づくことができるかもしれない人間だから。
そう思ってしまえば。
目の前の人に向ける視線が、自然と棘を含んだものになっていく。
「とりあえず、こんなところで突っ立ってるのもなんですし、奥へどうぞ。レッドさんなら、リーダーも文句言ったりしないでしょうし」
でも、我ながら凶悪なんじゃないかと思う視線を理不尽にも向けられた張本人は、なにも気にしていなかった。気づいていないわけがないと思うのに、顔色ひとつ変えない。表情ひとつ、動かない。
きっと、ここでずっとこいつの顔を見ていたら、帰ってきたグリーンと遭遇したとたんに理不尽な八つ当たりをしかねない。そう判断して、しゃくだけど勧め通りにジムの奥へ入ろうとして……ふと、気づいた。
ここは、ジムの入口。
ジムの入口を守るのは、この男。
つまり、ジムに帰ってきたグリーンを最初に出迎えるのは、こいつだ。
――この場所で。
「ここで待ってる」
次の瞬間、そう口にしていた。
それはつまり、グリーンが戻ってくるまでここでこいつの顔を眺めている、ということに等しい。
ぼくは、きっとバカだ。大バカ以外のなにものでもない。
でも、前言撤回する気も起きなかった。
「そうですか?」
不思議そうに首を傾げられたけど、追い払われはしなかった。そのことに感謝の気持ちは、もちろんまったく起きない。
……そして、やっと思い至る。
気にくわない相手だからこそ、名前を知らないのは不便だ、という事実に。
「ところで。きみの名前、なんだっけ」
「ヤスタカですよ、レッドさん。トキワジムの小手調べ担当です」
聞いてみたら、余裕たっぷりに笑われた。
ますます、へそが曲がる気がした。
「……なにやってんの、おまえら?」
グリーンは本当に、それからすぐ帰ってきた。
ヤスタカにすすめられても頑として奥へ入ろうとしなかったぼくのすぐ後ろから、聞き慣れた声が飛んでくる。そこには、多分に呆れが含まれていた。
「おかえりなさい、リーダー」
「おう、ただいま」
にこやかな笑みを浮かべたまま、ヤスタカがぼくの背後に向かって軽く手を挙げる。
それを振り払うように、振り返った。視界に入ったのは呆れを隠そうともしていない、幼なじみでライバルで誰よりも大事な人の顔だ。
「グリーン」
「てか、おまえも山降りてくるならくるって一言連絡寄越せっつーの」
連絡を寄越せという一言は、嬉しかった。
でも、それ以上に心がすさんだのがわかる。
ヤスタカには告げられたのに、ぼくには向けられなかった、『ただいま』という言葉。
「え、ちょ、おい、レッド?」
衝動のままに、その手首をつかむ。
今はただ、グリーンとふたりだけになりたかった。
誰にも、何にも邪魔をされないところで。
「おーい。なんなんだよ、突然」
「いいから。セキエイの用事は終わったんだろ」
「終わったけど、え、なんでおまえが知ってんの?」
「…………」
説明なんか、したくなかった。なにをそんなに意地になっているのか、ぼく自身もよくわからない。
無言を貫いたまま、つかんでいた手首を引っぱる。そうやってジムの外へ出ようとしたら、グリーンが苛立たしげな声をあげた。
「おい、レッド」
「俺が教えたんですよ、リーダー」
「あ、そっか。なるほど……って、そうじゃなくて」
後ろで交わされている会話は、気にしないことにする。目指すのは、ジムの外。
グリーンのテリトリーでもなく、そしてジムトレーナーの職場でもない領域だ。
少なくともグリーンは文句を言いつつも引っ張られるままに着いてきているし、ヤスタカが止める素振りもない。それならなんの問題もないと、勝手に納得しかけたちょうどその時。
「まだ今日の分の仕事残ってるんで、申し訳ないですけど1時間くらいで返してくださいね」
背後から、笑い混じりの声が投げかけられた。
「…………覚えてたら」
「忘れられてたら迎えに行くだけですから、べつにいいんですけど」
「…………」
しれっと続けられた言葉の内容に、また腹立たしい気分になる。
ヤスタカなら、本当にやる。しかも、絶対にグリーンを見つけだすだろう。
疑うことなくそう思えてしまうのが、悔しい。
グリーンを独占できていないことを突き付けられるたびに、心臓を鷲づかみにされたような気分に陥るぼくとは、違う。
求めるものが違うのだと、頭ではわかってはいるのに。
「いやあ、俺も馬に蹴られたくはないんですけど、仕事なんであきらめてもらえると助かります。それじゃ、行ってらっしゃい」
手をひらひらと振って、笑いながらヤスタカはジムの中へと消えていく。
その後ろ姿には、焦りもなにも見えない。
ああ、だから、その余裕がなによりも腹立たしい。
大体、グリーンが悪いんだ。あんな奴に、あっさり気を許したりするから。
本当はあっさりだったわけじゃなくて紆余曲折があったことがわかるから、ますますこの鬱屈した気持ちの行き場がなくなるのだ。
だから八つ当たり気味に、グリーンの手首をつかんでいた力を強くする。
「だから、なんなんだよ!? ふたりで勝手に納得してんじゃねえよ! つーか、痛えんだよ!!」
猫のように毛を逆立ててわめいているグリーンの抗議は、聞こえないふりをした。