来ないの?

「あら。小磯くんは? 来てないの?」

 久しぶりの挨拶を交わすなり、玄関で出迎えてくれた万里子は頬に片手を当てて首を傾げた。
 さきほどから何かを探すように目線を彷徨わせていたのは、そのせいか。手にしていた荷物を一度板張りの廊下へと降ろして、夏希ははあっと大きなため息をつく。

「うん、そうなんだ。誘ってたんだけど、バイトが長引いて来れなくなっちゃった」
「あらあら、まあ。そうなの、残念だこと。小磯くんのご飯もお部屋も、用意しておいたのに」
「ほんと、残念」

 そう、本気で残念だった。両親たちより一足早くここ上田の陣内本家へと来ることを、夏希はどれだけ楽しみにしていたことか。もちろん、小磯くんこと健二と共に。
 篠原夏希のボーイフレンド、小磯健二は夏希よりひとつ年下の高校二年生だ。夏に勃発した、まるで戦争としか言い様のないあの騒動のとき以来、夏希は彼に恋している。
 最初に健二をここへと連れてきたときの印象は、頼み事をされたら嫌とは言えない、ちょっと気弱な優しい後輩、止まりだった。だがその印象は共にいたほんの数日で一新され、今では日頃は頼りないけれどいざというときは誰よりも頼りになる、中心に一本太い芯の通った可愛い年下の彼氏、に変わっている。

 そう、夏希自身は健二のことを彼氏だと思っているのだが、じつはそこに重大な問題があって。
 高校二年生、青春真っ盛りの十七歳であるはずの健二は、度を越した奥手で初心で、そして信じられないほどの恥ずかしがりなのだ。「健二くんは私の彼」と夏希が口にするたびに、健二は真っ赤になって泡を食ったように大慌てで否定する。曰く、夏希のことは大好きだし憧れているし大切だし一緒にいられれば天にも昇る気持ちになるけれど、恋人だなんてそんなめっそうもない、とのことらしい。

 どこをどう割り引いても告白としか思えないようなセリフを口にしておいて、一体これはどういうことなのか。夏希も健二のことを好きだと言っているのだから、それでいいはずなのに。ある意味、この鈍さと奥手っぷりは天然記念物並だと夏希は思う。

 そう、だから。
 未だ手を繋ぐで止まっているふたりの関係をこの本家滞在で、なんとか進展させようと夏希は燃えていたのだ。
 燃えていたのだ、が。

「せっかく、チャンスだったのに……!」
「夏希? チャンスって、なにが?」
「あ、ううん、なんでもない」

 目を瞬かせる万里子に向かって。
 夏希は、あわててごまかすように手を振ってみせた。



「おお、夏希。久しぶり……って。あれ、婿殿は?」
「婿じゃねぇ! ってか、なんで健二いねーんだよ。迷子か、あいつ」
「なんでえなんでえ、健二のやついないのか? せっかく美味い魚、持ってきてやったってのに!」

 荷物を置いてリビングへと顔を出したら、今度は次々とそんな言葉が夏希へとかけられた。
 万作は新聞を広げたまま、首を傾げている。まだ昼間だというのに家にいる翔太は、一応非番で休みらしい。そして最後は、冬だというのに薄着な万助が台所から顔を出した。

「うん、バイトが終わらないんだって」

 健二が親戚たちに好かれていることは、夏希もよく知っている。すでに、夏希の婿扱いだ。もちろん、それが嫌なはずなどない。皆が夏希と健二の仲を応援してくれているここへ連れてくれば、少しは健二も……という打算も少々あったくらいだ。

「なんだ、そうなの? つまらんなあ。今度こそ二世がどうなったかを……」
「いるわけねーだろぉぉぉぉぉ!?」
「翔太、うるせえ!」

 だから、健二がいないことをこうやって残念がってくれるのは、とても嬉しい。
 嬉しいの、だけど。

 ──なぜか、心のどこかがちくりと痛んで。
 夏希にはまだ、この意味がわからなかった。



「夏希、着いたのか。……あれ、健二くんは? 来るって言ってなかったっけ」
「あ? 健二くん、来なかったのか? 数学雑誌の切り抜き、持ってきてやったのに」
「わん!」
「理一さん、侘助おじさん……と、ハヤテ」

 台所にお茶をもらいに行こうとしたら、今度は縁側で理一と侘助に会った。
 あぐらをかいて座り込んだ侘助は、紫煙をくゆらせている。理一は庭に降りて、ハヤテの頭を撫でていたらしい。
 夏希の姿を認めて嬉しそうに尻尾を振るハヤテも、もしかしてここに健二がいないことを不思議がっているのだろうか。

「バイトが長引いて、来れなくなっちゃったんだって」
「なるほど。それで、そんな拗ねた面してるワケか」
「わっ……侘助おじさん!!」

 拗ねては……いないはずだ。
 たしかに、残念だとは思っていたけれど。だって、仕方がない。健二は、仕事で来られないのだから。

「そ、そんなことない!」
「シシシッ。こういうときは素直になっとけ」
「ははは」

 歯を見せて、にやりと人の悪い笑みを浮かべる侘助はやけに楽しそうだ。理一に助けを求める視線を送ってみても、相変わらずのなにを考えているのかまったくわからない笑顔でスルーされた。
 とても頼りになるおじさんたちではあるけれど、どちらも決して人が良いとは言えない。みすみすからかいのネタを提供してしまったことにほんの少しだけ、夏希は後悔する。
 そのかわり健二が来ていたら、別の意味でこのふたりは夏希の味方になってくれただろうけど。健二を焚きつける、という点において。
 とりあえず、夏希がそんなことをぐるぐると考えているうちに、理一の意識は別のほうへと移ってくれたようだ。
 縁側へ腰を下ろすと、笑顔のまま腕を組んだ。

「そうか、健二くん来ないのか。それは残念だなあ、今回こそ口説き落とそうと思ってたのに」
「く、口説き落とすって」
「ウチの部署にね」
「……あ、そう」

 今度こそ、慌てた自分がバカだった、と夏希は後悔する。
 一体どんな誤解をしたのだ、自分は。冷静になって考えれば、理一が健二の才能をあっさりと見逃すわけがない。そういう人だ、昔から。
 ──そんなことを、今さらのように考えていたから。

「つーか、健二くんが来ないとすると、だ。もうひとりくらい不機嫌なヤツが出てくるってことになるかね」
「ああ、そうかもね」

 侘助と理一がそんなことを言い合っていたことは、夏希の意識に残らなかった。



「えー、ユカイハンこないのかよー!」
「つまんねー」
「健二兄ぃ、こないの?」
「こないのー?」

 そして、和室で暴れ回っていたちびっ子たちに見つかって、ひとしきりまとわりつかれた後。
 夏希は中庭に面した廊下で、五歳年下の又従兄弟と行き会った。
 片方の瞳は長い前髪に隠されているけれど、あらわになっているほうの目に宿る力は強い。気のせいかもしれないけれど、その目力は半年前よりも強くなっているような気さえする。

「……夏希姉ぇ」
「あ、佳主馬。……背、伸びた?」
「…………。2センチ」
「……だ、大丈夫、きっとすぐ伸びるから!」

 とはいえそんな佳主馬も、まだまだ夏希より身長も低い、手足も細い。少林寺拳法をたしなんでいるから弱々しさはないが、それでもまだまだ夏希にとっては庇護すべき存在だ。
 ……その、はずなのだが。

 奇妙な違和感を覚えて、夏希は首を傾げる。そしてすぐ、その理由にすぐ思い至った。
 聞かれていない。
 ここへ来てから、初めて。

「……佳主馬は聞かないの?」
「なにを」
「健二くんのこと」

 佳主馬は、夏に初めて知り合うことになった健二にずいぶんと懐いていた。それは佳主馬の母親である聖美が楽しそうに嬉しそうにしみじみと呟いていたくらいで、かなりめずらしいことだというのは夏希も知っている。
 決して、情が薄い少年ではない。むしろ、佳主馬は誰よりも家族を大切にしている。無愛想だし口数も多くはないが、それは陣内家の者であれば全員知っていることだ。
 その佳主馬が、健二にはわかりやすく懐いていた。
 あの鈍感な健二が、可愛い弟ができたみたいだと幸せそうに笑っていたくらいだ。誤解するほうが難しい。
 だから、おそらくはいちばんに聞かれると思っていたのに。

「知ってる。バイトが終わらなくて、来れないって言ってた」

 返ってきた答えは、予想外のものだった。

「……おじさんたちに聞いた?」
「メールが来た。健二さんから」
「…………」

 その時。
 夏希の胸の痛みが、ずきりと大きくなる。
 誰も、健二が来られなくなったことは知らなかったのに。
 夏希が教えるまで、知らなかったというのに。
 佳主馬が知っていたのは、なぜか。答えは、佳主馬本人が言っていた。健二が、メールで教えたからだ。

 健二と佳主馬は、仲が良い。それは、夏希もよく知っている。
 でも、それはあくまでも夏希が間に入っての仲、ずっとそう思い込んでいた。
 佳主馬だって、携帯電話は持っている。それに、OZだって使える。佳主馬のアバターであるキング・カズマはOZでの有名人だし、健二だってOZの保守点検をバイトにするくらいにはOZに近しい。
 よく考えたら、夏希を介する必要なんてどこにもないのだ。

 ──そして、やっと気づく。
 先ほどから感じていた、小さな胸の痛み。こんなに人が大勢いるこの陣内本家で、感じるはずのない感情。

 さみしい。
 会いたい。
 なぜ、あの人が隣にいないのか。
 どうして、健二はここにいないのか。

「…………っ」

 気がついたら、携帯電話を取り出していた。
 アドレス帳を開くまでもない。履歴から、すぐに出てくる電話番号。
 健二の、電話番号。

 ためらうことなく、発信ボタンを押す。
まだ陽は高いから、きっとバイト中だろう。冬休みの久遠寺高校物理部室で、佐久間と一緒にPCに向かっているに違いない。
 でも、遠慮する気なんてなかった。
 だって。

 どうしても、会いたかったから。



『夏希先輩、どうしたんですか? 今日から上田に行ってたんじゃ……?』

 携帯電話の向こうから聞こえて来る声は、記憶にある声と寸分たりとも変わってはいなかった。

 当たり前だ。
 昨日、同じ声を聞いたばかりなのだから。

「あのね」

 深く、息を吸う。心を、落ち着ける。
 わがままを言うのに、こんなに度胸と勇気が必要になる日が来るなんて、思ったことなどない。

「みんながみんな、私の顔を見るなり言うの。健二くんは? 来ないの? って」
『す、すすすすみません。先輩に迷惑かけることになっちゃって……』
「だから、今すぐ来て。責任取って」
『は? は……はいいいい!?』

 言われた意味がわからない。そうとでも言いたげな、素っ頓狂な叫び声が耳へと飛び込んでくる。
 健二の慌てた声も、好きだ。

「みんなに言われたら、めちゃくちゃ会いたくなっちゃった。だから、責任取って。今すぐ、会いに来て」

 でも、それ以上に、その慌てて目を白黒させている顔が見たい。

「会いたいの、すぐに。だから……だか、ら」
『せ……先輩』

 回線越しに聞こえてくる声は、今度は戸惑っているような色を帯びた。
 どうしていいかわからない。そんな健二の気持ちを、雄弁に伝えてくる。
 それもそうだろう。夏希にだってわからない。
 なぜ、目から涙がこぼれているのか。声が、震えてしまったのか。

 健二のことだから、きっと自分を責めるだろう。夏希を泣かせてしまった、と。
 だけど、これは健二のせいではない。あくまでも、夏希自身の都合。

 でも、会いたくて。
 大きくふくれあがってしまったその気持ちは、本物で。

 まるで壊れしまったかのように、同じ言葉しか頭に浮かんでこない。口から、出て行かない。
 このままでは、健二が困ってしまう。

 ──そんな夏希を、救ったのは。

「貸して」

 ずっと無言でその場に立っていた、佳主馬だった。
 通話中の携帯電話を夏希から取り上げると、耳に当てる。そして、まるでなんでもないことのように言葉を続けた。

「駅まで迎えに行くから」
『そっ、その声、佳主馬くん!?』
「他に誰がいるの」
「そ、そりゃそうだけど、っていうか、せ、先輩大丈夫? 平気!?』
「平気。……バイトって、OZの保守点検でしょ」
『そ、そうだけど……よくわかったね』
「健二さん、自分で教えてくれたくせに」
『あ、あれ? そうだったっけ』
「OZの保守点検なら、ここでもできるし。来なよ。みんな、待ってる」
『で、でも、佳主馬くんのパソコンずっと占領するわけにも』
「そんなの、べつにいい。……だから。帰ってきなよ、健二さん。僕も……夏希姉も、待ってるから」

 佳主馬が口にする言葉は、淡々としている。
 ともすれば冷たく聞こえがちなのにそう聞こえないのは、佳主馬の心がそこに込められているからなのかもしれない。

『……うん、ありがとう。行くよ、これからすぐ』

 そして。
 夏希と佳主馬の心は、健二の心を揺り動かすことに成功したようだった。

「わかった、待ってる。新幹線乗ったら、教えて」
『うん』

 佳主馬に取られた携帯からかすかに漏れてくるのは、紛れもなく健二が口にした言葉。
 すぐに、行くと。
 そう、言っていた。

「ん」

 目の前に携帯を突き出されて、夏希は我に返る。
 ひったくるように携帯電話を佳主馬の手から取り返すと、急いで耳に当てた。

 一言も、聞き漏らさないように。
 大好きな人の言葉を。

「健二くん」
『あの、先輩、これから行きますから』
「うん」
『待っててくださいね』
「……うん!」

 ──そして、電話は切れた。
 携帯を握りしめたまま、つい呆然としてしまう。
 衝動でかけた電話、だったけれど。
 本当に、願いを叶えてくれるなんて。

「……というわけだけど。駅、行く?」

 そんな夏希を見上げながら。
 ほんのわずか口の端を上げて、佳主馬がにやりと笑っている。

「行くに決まってるじゃない」

 結局、最後は佳主馬の力を借りなければならなかったなんて、悔しい。
 それでも、嬉しかった。健二が、ここへ来る。
 夏希のわがままを聞いて、ここへ今すぐ来てくれる。
 それだけで、こんなに嬉しい。自然と、笑顔になった。
 ここで、一緒に年を越すことができるのだ。

「……ありがと、佳主馬」
「べつに。夏希姉ぇのためじゃないし」

 それが照れ隠しでもなんでもなく、正真正銘佳主馬の本音だったことを夏希が知るのは。
 もう少し、後のことになる。




こういうことに関しては、たぶん夏希より佳主馬のほうが上手かなって。
夏希のほうが格段に有利だし、佳主馬もみすみす機会は逃せないですよね。
ふたりで健二を取り合えばいいんだと思います。

他の話との関連性はありません。これ単発です。

……って、衝動で書き始めたのに、きづいたらけっこう長かった……。