思い出アルバム・夏

「あ」

棚の中を漁っていたら、ひらりと1枚の写真が舞い落ちた。

拾い上げてみれば、そこに映っているのは過去の自分と同居人の姿。
時の流れに置き去りにされ、紙の中に切り取られた光景はなんだか遠い昔のものような気もする。でも、ふと目を閉じれば鮮やかに蘇るのだ。

あの真夏の、真っ青な空が。

「……どっちも、まだ若いなあ」
「そう? 健二さんはそんなに変わってないと思うけど」
「いやいやいや、それはないから。さすがにもうこれ、8年ま……え、あれ?」

8年前の写真に映った自分たちの姿を見て、つい口からこぼれた独り言に応えがあったことに気づいたのは、苦い笑みを浮かべながらそこまで口にした後だった。
先刻まで、この家にはひとりしかいなかったはずだ。そう、棚を漁って探し物をしていたはずの、健二自身しか。
とはいっても、耳に入ってきた声は聞き慣れたものだ。今さら、声の主を間違えるようなこともない。
そして、時間的には少々おかしいが、ここにいておかしい相手でもない。なにしろ、ここは彼の家でもあるのだから。
首だけをねじるようにして、振り返る。そこには、健二の肩の上からのぞき込むようにして、写真を見下ろしている佳主馬がいた。

「佳主馬くん、なんでいるの?」
「……あのさ。顔見るなり、それ?」

目を瞬かせてそう尋ねれば、佳主馬はわかりやすく眉根を寄せた。
無愛想で無表情で無口だと思われやすい佳主馬だったが、気を許した人間が相手の場合はそうでもない。話を振られればちゃんと受け答えをするし、なにより無愛想なりに表情もよく変わる。
つまり、今はせっかく帰ってきたのにあんまりな待遇を、しかも恋人にされて拗ねているといったところか。それを理解すれば、健二の顔には佳主馬とは正反対に自然と笑みが浮かんでくる。

(かわいいな)

声に出せばますますふてくされることはわかったので、それは言わないでおいた。
それに、佳主馬がこの家で不機嫌を貫き通すことはなかなかに難しいことも、健二はよく知っている。その程度には、健二だって自分の価値もいいかげん認められるようになったのだ。
それを根気よく教え続けてくれたのは、今目の前で仏頂面をしている年下の人物なのだけれど。

「え、だって今日って8限までぎっしり講義があって、ついでにその後なんかの打ち合わせがあるとか言ってなかったっけ?」

だから夕飯は遅くなるだろう、と頭の中で計算していたのだ。なので、まだ買い物にも行っていない。
ここしばらく立て込んでいた作業にも一段落つき、そのねぎらいの意味も込めて健二が所属している研究室そのものが今日は休みなのだ。しばらくは寝るためだけに帰ってきていたような有様なので、こんなに家でのんびりと過ごすのは本気で久しぶりだった。
佳主馬と一緒に夕飯を食べるのもかなり久しぶりなので、たとえ打ち合わせの帰りが遅くなっても待っていよう、などと思っていたのだが。

「だって」

佳主馬は仏頂面のまま、健二の背中越しに腕を回してくる。その腕に、身体ごと閉じこめられた。

「健二さんが足りないから、早く帰ってきた」

それがどうした、悪いか、とでも言いたげな拗ねた口調に、健二は呆れを隠す努力を放棄する。

「こら、サボっちゃダメだろ」
「……嘘。午後の講義、教授の気まぐれで丸ごと全部休講になった」

健二の首筋に顔を埋めるようにして背中からぎゅっと抱きついてくる佳主馬の声が、よけい拗ねたように聞こえたのは健二の気のせいか。
否、おそらくは違うだろう。とはいえ、健二にその理由は今ひとつわからない。
健二にとっては佳主馬が足りないなんて、それはもういつものことだ。その欲求に正直になっていたら、それこそ日常生活が成り立たない。

「打ち合わせは?」
「今日じゃなくてもいいって。向こうも他の案件のデッドが目前みたいだから、集中したいんじゃない」
「じゃあ、まあ、いいのかな」

さぼったわけではないのなら、特に小言を言う必要もないだろう。佳主馬はもう成人しているとはいえ、池沢家の両親からは年長者として佳主馬のことを頼まれている。
自分とのことで、佳主馬はすでにもう人生的には1歩足を踏み外しているのだ。これ以上、踏み外させるわけにはいかない。断固として。
──まあ、佳主馬からすれば「よけいなお世話」なのだろうが、健二にそこを譲るつもりはまったくなかった。

「でも、健二さんが足りないのは本当だから」
「え?」

佳主馬も、健二のそんな頑固さは知っている。
ため息をつくように、でもその声に少しだけ甘さもにじませて、佳主馬は抱き込んでいた健二の身体を反転させた。
正面から、見つめ合う。佳主馬の瞳にちらりと浮かんで見えるのは、真っ昼間にはあまり似つかわしくない情欲の色。

「……最近、ずっと数学とデートに忙しかったでしょ」
「あ……は、あはは……」

それを言われると、健二にはなにも言えない。
問題を解くことに集中してしまうと周囲のすべてが頭から抜けるのは、それこそ佳主馬と出会った頃からずっと変わらない癖だ。正確にはそれより前からの悪癖だったが、もう今さら直す努力はしようとも思わなかった。
一応、その癖のおかげで助かったこともあるのだ。少しは大目に見てもらいたい。
……それに、忙しすぎていろいろとご無沙汰だったのは事実で、それを思えば佳主馬の無言の要求にもじつに納得できる。というか、意識してしまえば佳主馬の不足をひしひしと感じてしまって、健二自身がいろいろと我慢ができない。

──と、自己弁護をしつつ思いっきり雰囲気にしかけて、ふと気づく。
それも大切ではあるけれど、それよりももっと大切なことがあるではないか。

「あ、そうだ、忘れてた!」
「……なに」

息がかかりそうなほどに接近していた佳主馬の顔が、健二の突然の大声でぴたりと止まる。またしても、佳主馬の声は不満そうだった。
まあ、健二にも気持ちはわかる。わかるが、これだけは忘れてはいけない。
だって、家族なのだから。
法律で認めらたわけではないけれど、そんなものよりもっと大切な人たちが認めてくれた、健二のなによりも大切な家族。

「おかえり、佳主馬くん」

満面の笑みを浮かべて、今さらの声をかける。佳主馬の瞳が、まん丸く見開かれた。
おそらく、驚いているわけではない。きっと、呆れている。
それが手に取るようにわかって、健二はますます笑みを深くした。
佳主馬はしばらく、じっと健二を見下ろして──そのうち根負けしたのか、はあっと大きく息を吐くと目の前にある肩へ顔を埋める。

「……ただいま、健二さん」

それでも、その声は優しくて。
健二は嬉しさを隠す努力も放棄して、サラサラと流れる真っ黒な髪を撫でた。




カズケンでもケンカズでもご自由に。
書いた本人にわからないんだから、どっちでもいいと思います。