佐久間くんの受難
それは、休日の昼前に鳴り響いた、携帯の着信音から始まった。
「んあ〜……?」
その辺に放り出してあった眼鏡を、手探りで探しあてる。これがないと、なにも見えない。
頭はまだ寝ぼけていたけれど、やっとはっきりした視界で同じくその辺に放り出してあった携帯をつかんだ。液晶ディスプレイに表示されているのは、親友の名前だ。
「なんだぁ?」
今日は特に約束しているわけじゃない。だから、寝坊して待ち合わせに遅刻した、などということはないはずだ。
だとすれば、あとは急用か、もしくは急にバカ話でもしたくなったか。
「……あと2時間……」
ここしばらく研究が忙しくて、あまり寝ていないのだ。それはもう、絵に描いたような睡眠不足というやつである。
やっと一段落ついて、あとは論文としてまとめるだけという形にまでこぎつけたから、今週末は心ゆくまで惰眠を貪るつもりだったのだ。だから高校以来の親友──健二とは約束もしていなかったし、そもそも相手も最近は卒業研究に必死で、家へは寝に帰っていたような有様だったはずだ。佐久間同様、昨日やっと修羅場を抜けて一息ついたはずだから、今頃はしばらく放っておかれることになった年下の恋人の機嫌を取るのに必死だろう。
だから、佐久間になんかかまっていられるはずがないのだ。
それなのに、こうやって着信音が鳴り響いている。できれば電話なんて無視して二度寝したい頭と目は相当ボケているはずだったけれど、見間違いだと判断してはくれなかった。
「ふわぁ……」
仕方がないから、あくびをしつつボタンを押す。携帯を耳にあてて、口を開こうとした途端。
『佐久間!』
「……な、なんだあ?」
ありえないほどに鬼気迫る勢いで名前を呼ばれ。
さすがに、目が覚めた。
「……で?」
「だから、おかしいと思わない!?」
おかしいのはおまえらの頭だ、と。
心の底から、そう言ってやりたい。
寝ぼけて電話をとったはいいものの、事態を把握できる機会すら与えられないまま電話の向こうでなにやらモメ始めたのを聞き取って、さっぱりわけがわからないからwebカメラとマイクを繋げ、と指令を出してから数分後。
佐久間の親友である小磯健二と、その恋人である池沢佳主馬の姿を映し出したモニタを目の前にして、佐久間は世の無常というか無情を呪っていた。
回線がつながったとたん、我先にと自分の主張を佐久間に言い募ってきたこの恋人どもは、一体自分をなんだと思っているのか。佐久間敬はべつに便利屋でもなければ、あまり大っぴらに関係を主張できないバカップルのノロケを聞いてやる担当でもないのだ。
「最近まともに家事してないし、佳主馬くんに頼りっぱなしだし、ゴミ捨てと買い物くらい、僕が行くべきだよね!?」
「健二さん疲れてるんだから、それくらい俺がやるよ。なんで任せてくれないわけ。健二さん、そんなに俺のこと信じられない? そりゃ、料理も掃除もそんなに上手くないけど」
「そういうことじゃなくて!」
「じゃあ、なんで」
「だから……」
頼むから、そんなくだらないことで揉めて、睡眠不足の人間を叩き起こさないで欲しい。
「なんだっていいじゃん、そんなの……」
「「よくないよ!!」」
そんなところばっかり、気があってどうする。
そうツッコミたい本音をなんとかおさえて、佐久間は話を聞きはじめたときからずっと思っていたことを口にした。
「だから、そんなんふたりで行けよ。ゴミ捨ても買い物も、ついでに家事も全部ふたりでやりゃいいだろ」
「あ」
「あ」
ぴたり、と。
画面の向こうでの言い合いが、止まった。
互いに顔を見合わせて、目を丸くしているところを見ると。
「…………」
本気で、今までそれに思い至らなかったようだ。
「そうだよね、そうすればよかったんだ」
「たしかに。佐久間さん、頭いい」
そういう問題じゃない。決して、ない。
佐久間の頭が良いわけではなく、たしかにそこまでデキが悪い頭ではないとは思うが、だがしかし。
「……で、これにどんだけ時間かけてたって?」
「えーと……どれくらいだっけ?」
「朝からずっとだから、4時間くらい?」
「…………」
画面の向こうで互いの顔を向けあい、首を傾げているふたりの姿を、 佐久間は生ぬるい気持ちで眺めてしまう。
どちらも、決してIQそのものは低くないというのに。
むしろ、高いのに。
片方はかなりその有効範囲が偏っているとはいえ、もう片方はかなり万能なはずなのに。
(バカだろ、こいつら……!)
もう、口に出して悪態をつく元気すらなくて。
「はあ……」
佐久間はただ、深くため息をついた。
くっだらないことで揉めるバカップルが書きたかっただけ。
痴話ゲンカには微妙に至りませんでした。