箱庭の向こうに夢がある

2

「うーん……おっかしいなあ。夏希せんぱーい!」
「……はぐれたね、これは」
「うう……そうみたいだね……」

 がくり、と健二が肩を落とす。慰めるようにその肩を軽くぽんと叩いて、佳主馬はもう一度あたりを見回した。
 佳主馬の背は、決して高くない。むしろ、どちらかといえば低い。
 背が低ければ当然視界も狭いわけで、佳主馬より背の高い健二に見つけられないものが見つけられるはずもなく、小さくため息をつく。
 そう大きいわけでも有名なわけでもない神社で催されていた縁日は、予想以上ににぎわっていた。
 行き交う人たちのざわめきや、子どもたちの歓声がひっきりなしに耳へと入ってくる。名古屋に比べればずいぶんと静かなこの町に、ここまで大勢の人がいたのかと今さらのように思うほどだ。
 夏休みのまっただ中、毎日楽しみを探し歩いている子どもたちがはしゃぐのは当然。そして祭りともなれば、日頃は理性の皮を被って大人のふりをしている人々も浮かれるというものだ。そんな空気が満ちる神社は、普段の神聖にして荘厳な雰囲気など少しも残してはいない。
 結果として、浮き足だった年長者が年甲斐もなく罠にはまることもあるわけだ。
 ──迷子、という名の。

「困ったな……ここ、圏外みたいだし」

 手にした携帯の液晶画面を見つめて、眉をハの字に下げた健二がため息をつく。
 迷子になったのは、もちろんこの場にいない夏希だ。予想以上の人出にごった返していた参道を、人混みをかき分けながら歩いているうちにいつの間にか姿が消えていた。

「どこかで寄り道でもしてるんじゃないの」
「そうだといいけど……で、でもさ。まさかとは思うけど誘拐とか……!?」
「あるわけないでしょ。落ち着きなよ」
「ですよね……」

 どう考えても、屋台に並ぶ品々に気を取られているうちにはぐれた、あたりが妥当だろう。混乱していきなり突飛なことを言い出した健二の反応そのものは面白いが、それに同意する気にはなれない。
 そんなことを言い合いながら道の途中で立ち止まってしまった佳主馬と健二を避けて、時には押しのけて、人の流れはざわめきと共に神社の奥へと続いていく。
 ……とりあえず、ここにいるのは邪魔だ。おろおろとしている健二を促すように頭ひとつぶん以上高いところにある顔を見上げると、その人はどこかほっとしたような表情を見せる。

「夏希先輩が引っかかりそうな屋台ってどれかわかる?」
「知らない」

 そんなの、考えてみたこともない。素直といえば素直、身も蓋もないと言えばまさにその通りな佳主馬の返答に、健二はがくりとうなだれた。

「うう、だよね……とりあえず、先輩探しに戻ってみようかと思ったんだけどな」

 そして、どこまでも人が良いのだ。

「どうせ拝殿までは行くんだし、そこで待ってればいいんじゃないの」

 仕方がないから、佳主馬のほうから妥協案を出した。

「この混み具合じゃ、探しに戻ってもすれ違う確率のほうが高いよ」

 ちゃんと確認し合っているわけではないが、一応暗黙の了解のうちに拝殿が目的地になっているはずだった。
 縁日を楽しむのは、神様にお参りをしてから。感謝の気持ちを告げて、それから今日一日を楽しむ。
 そう教えてくれたのは、曾祖母の栄だ。陣内家の人間であれば、それを違えることなどない。

「うーん、そっか……そうだよね」

 それが健二に伝わったかどうかは、佳主馬にもわからなかったけど。
 ただ、そちらのほうがはぐれた夏希と合流しやすいということだけは、わかってくれたようだ。納得したようにうなずくと、健二はへにゃりと笑って。

「じゃあ、せめて。はい」
「は?」

 なぜか、佳主馬に向かって右手を差し出した。

「……なに」

 なるべく平静を取り繕ってはみたけど、ほんの一瞬とはいえ返答に詰まったことに、気づかれただろうか。
 健二の意図がつかめない。この差し出された手の意味を、どう解釈すればいいのか。

「え、だって、佳主馬くんとまではぐれたら大変だしさ。このあたりにはまだ慣れてないし、どうしたらいいかわかんないし、だから手を繋いでおけば大丈夫かなって」

 しかも──じっと健二の手を凝視したまま動くことができないでいる佳主馬に告げられたのは、そんな言葉だった。

「手……っ、て」

 たしかに、はぐれないためにはそれがいちばんだ。
 いちばんだ、が。

(……なんで?)

 手を繋ごうと言い出した健二に対しての疑問、ではない。
 たかが手を繋ぐだけだというのに、過剰なまでに反応している佳主馬自身に対する疑問、だ。

「うん、手」

 幸いなことに、健二は佳主馬の様子の変化に気づいてはいないらしい。にこにこと笑顔でふたたび促され、覚悟を決めた佳主馬はそろそろと左の手を伸ばした。
 健二の手は、白い。日に焼けた佳主馬の手と重なると、見事なまでのコントラストを作る。
 そして──どこかひんやりと、冷たい。

「佳主馬くんの手、あったかいなあ」
「……夏だし」

 しっかりと佳主馬の手を握った健二が、楽しそうに笑う。
 気を抜くと上ずりそうになる声を必死で抑えて、佳主馬はぽつりと呟いた。

(あったかいなんてもんじゃないって)

 繋いだ手が、熱い。
 身体すべての熱が、手のひらへと集まっているような気さえしてくる。

(なんで)

 こんな経験、今までしたことがない。
 中学生にもなると、手を繋ぐという行為自体が少し気恥ずかしいものにはなってくるけど、だからといってこんな気持ちになったりしたことは一度もない。
 手を繋ぐのが嫌なわけじゃない。むしろ、逆。
 全身が熱くなるほど、顔まで赤くなりそうなほど、強く意識するほどに。
 ──ずっと、こうしていたいかもしれない、なんて。

(……もしかして)

「……っ」

 ふと脳裏に浮かんできそうになった言葉を、それがきちんと形を作る前に振り払う。
 考えたくない。
 この、今の状況を表す言葉なんて、知りたくない。

(知ってしまったら、もう引き返せない)

 言葉も、知らないのに。
 強く、そんな気がしたから。

「佳主馬くん?」
「なんでも、ない。……それより、早く行こう。夏希ねぇ、もしかしたらもう先に行ってるかもしれないし」

 不思議そうに顔をのぞき込んできた健二の目を、佳主馬はなぜかまともに見ることができなかった。
 動揺を覚られないよう、ほんのわずか目を逸らしたことに気づかれないよう、一歩前に出て健二の腕を引く。
 身体はまだ健二よりだいぶ小さかったけども、少林寺で鍛えているおかげで力はないわけじゃない。簡単に、注意を引くことができた。

「あ、うん、そうだね」

 たぶん、気のせいではないだろう。
 夏希の名前を耳にした途端、健二の笑みがより深くなったように見えたのは。
 そして、それに気づいてしまった佳主馬の心に、小さな痛みが走ったのは。
 だから、ごまかすように口を開く。照りつける太陽を、背にして。

「……早く、行こう」

 ──それはまったく、本音ではなかったけど。


「あーっ! 健二くん、佳主馬、いたっ!!」
「夏希先輩!? 探しましたよ……!」
「ごめーん! 迷子になってる女の子見つけちゃってね、気を取られてたら私まではぐれちゃってた」
「え、その子は? 大丈夫ですか?」
「社務所に預けてきたから大丈夫……って、あー! ずるいずるい、ずるい! 私も!」
「え?」
「手! 私も健二くんと手、繋ぐ!」
「ええっ!?」
「…………」

 結局。
 そのまま、ずっと。
 佳主馬は、健二の手を離すことができなかった。

 ──そんな、真夏の昼下がり。
 理由もわからないまま、深く魂に刻まれた。

 思い出。




手を繋ぐふたりが書きたかっただけという話(どんなん)。
というか、なにも始まっていないにもほどがある。

健二さんに恋したことを自覚したくなくてあがく佳主馬ってけっこう可愛いと思いませんか。
うん、ただそれだけ……。