毎日が戦争

騒音が過ぎ去った後の静寂を台無しにしようとでもいうのか、あたりに無粋な音が鳴り響く。

「……あのさ、健二さん」
「あ、あれ?」

その日、その人は朝から、なんだかツッコミたくなることばかりやっていたのは確かだった。

基本、健二は寝起きがいい。ただ、それはちゃんと睡眠時間が確保されていた場合に限る。主にレポートに四苦八苦する羽目に陥った結果寝るのが朝方になったとか、そもそもレポート(一般教養)にとりかかったのがどう考えても遅すぎたとか、なんでそうなったかといえばうっかり面白そうな数学の問題を見つけてしまってそれにかまけていたからだとか、どう考えても健二の自業自得でしかないことが原因で彼の睡眠時間はよく削られており、そうなった場合当然のように、寝起きのよさなどきれいさっぱりどこかへ消え失せるのだ。

とは言っても、べつに機嫌が悪くなるわけではない。どちらかと言えば、機嫌はいい方なのだろう。ただ、浮かれた魂が身体からふらふらと抜け出てしまったかのように、心ここにあらずな状態になってしまうだけだった。最初にその状態の健二に遭遇したときは、まさか朝っぱらから酔っぱらっているのかと思ったものだが、さすがにそういうわけではないことはもう学習している。

で、そんな状態の健二、というのはこれがまた。
みごとなまでの、大ボケと化すわけだ。ちなみに、今日は皿を三枚割っていたし、ついでに本棚に激突してあやうく倒しそうにもなっていたし、さらに駅の階段からも足を踏み外しそうになっている。他にも空のやかんを火にかけようとしたり、生の玉子を殻つきのまま電子レンジに突っ込もうとしたり、水を飲みにキッチンへ来たはずなのになぜかアルミホイルを手にして部屋へ戻ろうとしてみたり、枚挙にいとまがない。

佳主馬は昨日から健二の家に泊まっていたから、もちろん朝からずっと一緒だった。だから、久々にその惨状を目の当たりにしている。しかも、今日の健二が寝不足な原因には佳主馬も一枚噛んでいるので、なにも言えない。

というか、睡眠時間に関しては佳主馬も条件的には同じだ。ただ、そこは日頃からちゃんと身体を鍛えているせいか、体力的なアドバンテージがある。寝不足も、ある程度は体力でカバーできるものなのだろうか。

(……それだけじゃなすまない気はするけど)

そう、絶対に。
生来のなにかが、ある。

で、なぜ昨日から佳主馬が健二の家に泊まっていたかというと、今日、健二を上田へと連れてくるためだった。

陣内家の皆は、健二のことをすでに家族と認め、その訪れを心待ちにしている。最初は健二の先輩でもある夏希の婿だと認識していたはずなのだが、どこをどう間違ったのか今は健二が佳主馬の恋人という立場に落ち着いていることも承知の上で、やはり細かいことは気にすることなく受け入れている。親戚一同、皆大らかというかアバウトというかいい加減というか気っ風がいいことに、佳主馬はもちろん感謝していた。

ただ、変なところだけ常識的というか遠慮がちな健二は、それを気にしている。自分が血の繋がった家族の一員というわけではないだけでなく、佳主馬と性別が同じであり、本当の意味で結婚するわけにはいかない、という部分だ。

他の誰も気にしていないのに、健二だけ気にしてどうするのか。何度もそう言いはしたものの、気になってしまう以上どうしようもないこともわかるので、佳主馬は健二をひとりで上田に行かせたことがない。必ず、佳主馬自身が一緒に連れて行く。

佳主馬が一緒であれば、健二は嬉しそうに上田へと来てくれるのだから。それくらい、お安いご用だった。

(一緒にいる口実ができるし)

──ただ、なんというか。

「……それ、なに?」

それを目の当たりにしてしまった、今。
口実とか、そういうものを越えてしまったような気がしなくもない。

「え……切符」
「どこが」

自動改札から聞こえてくるエラー音の元、それは。
……どう見ても、紙だ。

確かに、切符だって紙だ。電子マネーがメジャーになった今でも、長距離の電車移動はやはりまだ切符の世話になることが多い。その切符は、磁気処理されているとはいえ、間違いなく紙だった。
それは、佳主馬も知っている。というか、たった今この自動改札を通過するまで自分で手にしていたのだから、さすがにわかる。

ちなみに自動改札は、切符を入れれば普通に通ることができる。こんなエラー音は、鳴らない。
だと、すれば。
どうして、健二の前で自動改札の扉が音をたてて閉まり、しかもエラー音がやかましく騒ぎ立てているのかというと。

「……あ。これ、歯医者の診察券だ」
「…………」

つまり。
健二が自動改札の中に入れたものが、切符ではなかったということだ。

「あれえ? 僕の切符、いつのまに診察券に化けたのかな?」
「普通化けないから」
「でもこれ、診察券だよねえ? おかしいなあ、歯医者とかもう三年くらい行ってないんだけどな。どこから出てきたんだろ、これ」

そんなの、健二にわからなければ誰にもわからない。
もちろん、佳主馬が知っているはずもない。
……佳主馬ができること、といえば、

「……今度から、僕が切符まとめて持っとくから」

そう、提案することくらいで。

「え、いいの? わー、助かるなあ。僕、すぐなくしそうになるんだよね」

しかも、気の抜けそうな笑顔で感謝されてしまい。

(僕、一生この人の面倒見る。……そうしないと、なんかものすごく後悔しそうな気がする。──主に、生活面)

若干、十六歳にして。
池沢佳主馬は、そう強く心に誓った。