夏色端唄

「佳主馬くん?」

 ちりりん、と。
 風鈴が、涼しげな音を立てる。

「……佳主馬くん?」

 健二が、名前を呼ぶその人は。
 日陰になった縁側で、丸まっていた。風鈴の音にまぎれて聞こえてくるのは、かすかな寝息。
 ──佳主馬は、無防備に眠っていた。
 風の通る、この場所で。

「……昼寝かぁ」

 佳主馬が縁側で昼寝をしていることなんて、べつにめずらしいわけでもなんでもない。この陣内本家は佳主馬が物心つく前から何度も訪れている場所のはずだし、気を抜いてくつろいでいたところで不思議ではなかった。
 ただ。今、この家には健二がいる。
 健二は、陣内一族の人間ではない。この夏、一族の皆と世界の存続を賭けて共に戦ったりはしたが、基本的には部外者だ。しかも、もともとは憧れの先輩──夏希にアルバイトを頼まれた、フィアンセの『偽物』でしかなかった。
 それなのに。いつのまにか健二も、『家族』の輪に入れられるようになっている。
 大家族の、温かみ。今まで、健二が知らなかったもの。
 それは……とても、心地よくて。
 夏休みとはいえ、東京に帰ればやることなんていくらでもあるのに。めったに家にいない両親だってさすがにいつまでも帰ってこない息子が、そろそろ心配になってくるころだろうに。
 健二は陣内家のみんなに引き止められるまま、この本家でまだ世話になっていた。

「夏かぁ」

 縁側の向こう側──陽の当たる世界では、生い茂った緑が輝いている。
 目の覚めるような、鮮やかな色彩。都会では見られない空の色、そして自然の色。

「……うん。ここ、好きだな」

 ぽつり、と口をついて出たのは。
 ……そんな、本音。
 健二には、田舎での思い出、というものがない。
 両親は、どちらも東京の出身だ。しかも、すでに父方も母方も、祖父母はいない。小磯家というのは、親戚という存在とは縁の薄い家系だった。
 だから──たぶん。
 ここにいる、皆が。
 健二にとっては、初めてできた親戚。

「…………」

 改めてそう考えると、少しだけくすぐったい。
 そして……その一斉にできた親戚の中でも。今、すぐ足元で寝入っている少年は、健二にとって特に気になる存在だった。
 まるで女の子のように華奢な外見をしているのに、その心は強い。しかも、その強さと同じくらい、もろい。
 大人びているのに、子どもっぽくて。その危ういアンバランスさが、健二を惹き付けて止まない。
 夏希に憧れていたはずなのに、気づけば健二はずっと佳主馬を視線で追っている。

(なんでなんだろ……)

 佳主馬がOMCのチャンピオンだから、そういうわけではないと思う。思う、が。
 他に、理由も見つからない。

「ここだけ?」
「えっ!?」

 急に下から聞こえてきた声に、健二はそれこそ心臓が飛び出しそうになるほど驚いた。
 慌てて視線を足元に戻せば、寝入っていたはずの佳主馬がじっと健二を見上げている。決して目つきがいいとはいえない、漆黒の大きな瞳。
 躊躇なく、まっすぐに健二の視線を跳ね返す。

「ねえ、好きなのはここだけ?」
「そっ、そんなことないよ!? ここにいるみんなも、大好きだよ!」
「そう。……ここ、座って」
「は、はい」

 なぜ、佳主馬の言うとおりにしてしまうかなんて、健二にはやっぱりわからない。
 ただ、母親である聖美曰く、あまり他人に心を許すことがないらしい佳主馬がここまで人に懐くのは、めずらしいことらしくて。
 ……そう、思えば。健二にできることであるのなら、つい佳主馬の願いを叶えてあげたくなる。
 そして、なぜか。寝っ転がっている佳主馬の、すぐ横に正座した健二の膝の上へと。

「よいしょ」
「か、かずまくん?」

 おもむろに、何かが乗る。丸みを帯びた、重みのある固いもの。でも、少しだけ肌触りが良くて。

「あ、ああああああの?」

 それは……佳主馬の、頭だ。

「まだ眠い」
「そ、それはわかるんだけど」

(なんで、膝枕?)

 肝心な部分は、言葉として口に出せなかった。

「なんか、話して」
「なんかって?」
「なんでもいい。健二さんの声、聞きたい」
「え……き、聞きたいって」

 すり、と。佳主馬が、健二の足に頬をすり寄せる。

「か、かかか、佳主馬くん?」

 まるで、猫のようなその仕草に。健二は、そのままの体勢で固まった。
 どうすればいいのだろう。そもそも、この体勢自体がいろいろと信じられないというのに。
 足の上に乗せられた、さらさらと流れる黒髪に触れてもいいのか。
 ──そんなことを、考える。なんだか、健二のような人間が触れることなど、許されないような気がして。
 実際は……佳主馬のほうから、健二に触れてきているのだけど。

「え、えええっと……円周率でもいい?」
「……いいよ、この際」

 健二の、動揺しているとしか言いようのない意味不明な質問に。
 呆れを含んだ──でも、どこか優しい声が、答えた。