意思の疎通なんて最初からどこにもない

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あいつが何を言いたいのかは、大体わかる。
でも、何を考えているかは、正直なところわからない。





「ええっと、つまり三年前にグリーンさんに勝ってチャンピオンになった人が、グリーンさんのライバルだったと」
「ま、そーゆーことだ」

肩をすくめてそう言えば、その子は子どもらしいくりくりとした目を何度も瞬かせて、「わあ」とひとつ声をあげた。
驚いているのは、よくわかる。いろいろと現実離れしているから、その気持ちはなんとなくわからなくもなかった。
――三年という時間は、けっこう長い。
特に、十代前半の子どもともなればなおさらだ。未だ十代半ばにも達しておらず、成人も遠いグリーンには、三年を短いと言い切る大人の感覚などさっぱりわからない。
三年もあれば子どもというのはさすがに少しくらい成長するわけで、成長前の己の言動など、振り返りたくなくなるものだ。気恥ずかしいなどというそんな甘っちょろいモノではなく、まさしく黒歴史とも言えるような封印した過去に触れたくない、という意味で。
なのに、今目の前にいるこの子どもは、そんな過去を思い出させる。
べつに、彼がグリーンのあまり言いたくない過去を掘り返そうと、根ほり葉ほり聞いてくるわけではない。子どもらしい好奇心と、先輩への憧れみたいなものからあれこれ尋ねてくることはあっても、それはどちらかといえばグリーンのプライドや優越感をくすぐってくれるような、かわいらしいものだった。元セキエイリーグのチャンピオンで現カントー最強のジムリーダーに憧憬の念を抱くのは、ポケモントレーナーとしてさほど不思議なことでもない。
その子には、ジムリーダーとしてグリーンバッジを渡した。たとえジム戦用にレベル調整された手持ち相手とはいえ、それを破りトキワジムのバッジを得ることができるトレーナーは少ない。だからこその、カントー最強と言われるジムだ。グリーンがジムリーダーになってから、カントーのバッジをすべて集めて四天王とチャンピオンに挑んだトレーナーなど片手の指で数えられるほどしかいない。
なのに、ジョウトから来たその子どもはグリーンからバッジを奪っていった。軽々、というわけではない。何度か敗退を繰り返し、それでも諦めずに前を向いて、とうとうその子は悲願を達成したのだ。ようやく勝利をもぎ取ったときの彼の笑顔は、見ているほうがつい嬉しくなってしまうほど、輝いていた。
そしてその子は、バッジをゲットした後もなぜかちょくちょくトキワジムにやってくる。しかも、いつのまにかグリーンのポケギアの番号まで入手していた。ちなみに、ポケギア番号は姉のナナミが教えたらしい。

(勝手に教えんなっつの)

むしろ、あの姉がよけいなことまで吹き込まなかったかどうかが気になる。
が、気にしたところでどうしようもないのもわかっていた。弟という生き物は、姉に勝てるようにできていない。
……まあ、それはいいのだが。グリーンには、なぜ自分がこうまでこの子どもに懐かれているのか、今ひとつよくわからない。
一応あれこれ考えてみた結果、カントー最強のジムリーダーだから、修行相手にちょうどいいのだろう、という結論に達していた。このくらいの年齢の子ども、しかもポケモントレーナーであれば、なによりも強くなることを第一に考えるモノだ。それこそ、過去を振り返ればよくわかる。同時に、あまり思い出したくない黒歴史の最たる部分まで浮かび上がってしまうが。

(まー、強いヤツとバトルするのは楽しいしな)

ジムリーダーとしてのバトルにはレベル制限を始めとする様々な規制がつきまとうから、それを気にせずに一介のトレーナーとして戦えるのはとても楽しかった。
より強くなりたい、という気持ちはわかる。もう、そればかりに気を取られることもないが、勝ちたいという気持ちもわかる。
グリーンには、過去一度も勝てたことのないライバルがいる。しかも、幼馴染みだ。
どれだけ、勝ちたいと思ったかしれない。正確には、勝ちたいというより負けたくなかった。
幼馴染みでライバルなのだから、ずっと対等でいたかったのだ。
……本当に対等だったかどうかは、もうわからないが。

「すごいんですねえ、そのレッドさんって人」
「まー、バトルに関しちゃあいつ以上のヤツに会ったことねえよ。つーか、大体あいつはやることなすこと派手なんだよな。自重って言葉を知らないっつーか……本人、どっちかっていうと地味なのに」
「ロケット団をひとりで壊滅させて、無敗でリーグ制覇しちゃったんですっけ。とんでもないですね」
「や、おまえに言われるとな……」
「あ、なんですか、その目。ぼくはロケット団のボスなんて倒してませんよっ。幹部だけですよっ」
「あんま変わんないだろ」
「えー、大違いですよ」

紅茶と一緒に出してやったナナミの手作りクッキーをつまみながら、その子は不満そうに唇を尖らせている。

(なにが不満なんだか)

もう半年以上前になるが、いつのまにか復活していたロケット団がジョウトで起こしたラジオ塔占拠事件を十歳前後のトレーナーが解決した、という噂はカントーにも届いていた。なんとなく既視感を感じる噂だと思っていたら、当の本人がグリーンの目の前に現れたというわけだ。
そうしたら案の定、本人にも既視感を感じてしまった。姿形ではなくて、どちらかといえばその瞳に浮かぶ光。ポケモンとの接し方。
そして、強くなりたいと願う心。
……そんな子が、そいつに興味を抱くのは当然と言えば、当然で。
べつに、意外ではなかった。それどころか、予想の範囲だった。
それでも。

「ところで。その人って、今どこにいるんですか?」
「さー」

いざ口に出されると、少しばかり動揺してしまう。
それでも、口から出た声はかろうじてどうでもよさそうに聞こえた。表情も、さほど変わってはいないだろう。
だが、実際はそんなことない。
あるわけがない。

(そんなの、俺がいちばん知りてえよ)

本格的に、古傷がえぐられていく気がする。
やはり、三年前のことは禁句にでもしておいたほうがよかったのかもしれない。よくよく考えなくても、グリーンが過去を語ろうとすれば必ず、それはつきまとってくるのだから。
物心つく前からの幼馴染みで、ライバル。
旅に出た日も同じなら、旅を終えた日も同じ。頂点に立った日すら、同じ。
――切り離して考えるほうが、難しい。

「え、グリーンさんも知らないんですか?」

その子が、ポーカーフェイスで隠したグリーンの心中に気づいた様子はない。だが、グリーンが口にした少しだけ間延びした一音の言葉は、現リーグチャンピオン(ただし、殿堂入りしただけでさっさと辞退した。そんなところまで、この子どもは既視感を抱かせる)を少なからず驚かせたようだ。
クッキーへと伸ばしかけた手をの動きを、ぴたりと止めて。
ぱちぱちと、彼は目をまたたかせる。とても、意外そうに。

「知らねえ。つーか、レッドのおふくろさんも知らないのに、俺が知ってるわけねえだろ」
「……グリーンさんなら、知ってるかと思ってました。幼馴染みだし」
「ないない」

なるべく、不自然にならないように視線を外す。
そのまま、鼻で笑うように手をひらひらと振ってやれば、納得がいかないとでも言いたげに首を傾げた。

「……なんでだろ?」
「や、俺に聞かれても」

そんなもの、わかるはずがない。
本人が目の前にいればその表情や雰囲気を読むこともできるが、グリーンにはその機会すらなかった。

「わざわざ、言うまでもなかったってことじゃねえの」
「そうかなあ……?」

視線を戻せば、その子は眉間にしわを寄せてなにやら考え込んでいる。その姿に、つい苦笑ではない自然な笑みがこぼれた。
たとえレッドと同じような道を歩んでも、この子なら周りの人に何も告げず、消息を絶つようなことはしないだろう。そのことに、安堵する。

(結局、しっかり全部思い出しちまった)

それでも、思ったよりもダメージを受けていないのは、たぶん目の前でうんうん唸っているこの少年のおかげだろう。
……思い出したくなかったのは、レッドに勝てないことでも負け続けたことでもない。
幼馴染みに、ライバルに勝てなかったからこそ、今の自分がある。勝ち続けたままでは、きっと過去に築いた黒歴史を黒歴史として認識することすらできなかった。黒歴史そのものはできることなら抹消したいが、築いてしまったものは今さらどうしようもないので反面教師にでも使うしかない。できれば思い出したくないし触れたくないが、ある程度は笑い話にできるようにもなってきた。
だが――それ以上に、触れたくなかったものがある。

(なんでこんな話、しちまったのかな)

理由は、簡単。この、ジョウトから来た子どもが――ヒビキが、レッドに似ている気がするからだ。
三年前に、レッドは一言もなしに行方をくらました。とはいえ、いなくなった当時はそこまで心配もしていなかった。
最初は、どうせすぐに戻ってくると思っていたからだ。グリーンもレッドも母親も何も聞いていないのだし、そこまで遠くへ行ったわけではないのだろう、と。
実際には、その読みは外れもいいところだった。何ヶ月経っても帰ってくる気配はなく、連絡すらない。
口にこそ出さないもののどう見ても心配している隣の家のおばさんの様子を見るに見かねて、グリーンはレッドをあちこち探し歩くことになった。そのときはもうトキワジムのリーダーに就任しており、おかげでトキワのジムリーダーはしょっちゅうジムを留守にしている、という噂が蔓延してしまったくらいだ。そして、その噂はまぎれもなく事実なので、あまり大きなことも言えない。
とはいえ、アテもなく探したところで見つかるわけもなく。結局、おおよそ1年ほどで捜索もあきらめた。
――探したところで、万が一にも探し出せたところで、レッドを連れて帰ることができるかどうか、わからなかったからだ。
自信が、なかった。

連れ戻せるだけの理由が自分にあるかどうか、疑わしいことこの上ないからだ。

負けたくなかったのは、ライバルと対等でいたかったから。実際は負け越しどころかロクに勝ったことすらないが、それでもリーグのチャンピオンという座にはふたりとも立った。
あのとき、レッドによってその座から追い落とされたことは、悔しくはあるが仕方のないことだとも思っている。さすがにあの時はショックと落胆のほうが大きくていろいろなことを素直に認めることができなかったが、すぐにわかったことだ。
だって、グリーンよりも、レッドのほうが相棒であるポケモンたちと心を通わせていた。
もちろん、グリーンの手持ちたちだってレッドの手持ちたちと同じくらいグリーンを慕っていてくれたけども、肝心のグリーン自身が中途半端だったのだから仕方がない。レッドに勝ちたいあまりに、彼らの――ポケモンたちがグリーンへと寄せる愛情と信頼を、見落としていた。気づかなかった。突き付けられるまで、気づこうともしなかった。
だから、あのとき負けたのは仕方がない。でも、グリーンがそれに気づいたときには、もうリベンジすべき相手はそこにいなかった。

――消えて、しまっていた。物心つく前から共にいた幼馴染みに一言もないどころか、それこそたったひとりの母親にすら、何も言わずに。

(あいつのことだしなあ)

どうせ、そこに深い意味なんかないことはわかっている。
ダテに付き合いが長いわけではないのだ。ちょっと散歩のつもりで足を伸ばした場所で、思い立ったからそのまま旅に出た。連絡は、面倒だからしていない。せいぜい、そんなところだろう。
それなのに、レッドがいなくなったと知ったとき、まず何を思ったか。

置いていかれた、と。
……そう、思いはしなかったか。

対等でいたかったから、負けたくなかった。でも、それ以上に置いていかれたくなかった。
あの旅の間中、常に先行しようとしていたのはそのせいだろう。すぐに追いつかれるのだから考えてみれば大した意味もないが、本当に突き放してしまいたかったわけじゃないのだからそれでよかった。
会いたくなったら、足を止めて待っていればいいのだ。すぐに、レッドは追いついてくる。バトルになればそれはもう見事に負けたが、楽しかったのだからそれはそれでよかった。
もともと素直になんかなれていなかったが、素直じゃないにも程があったチャンピオン防衛戦だって、本当は楽しかった。たぶん、過去最高に楽しかった。あれ以上に楽しかったバトルなんて、あれ以来一度もできていないくらいだ。
……今となっては、もう乾いた笑いしか浮かばない。
結局、グリーンの願いはどちらも叶わなかったのだから。
負けたくなかった、も。
置いて行かれたくなかった、も。

(くそ、真剣に思い出しちまった)

ああ、もう、本当に腹が立つ。むかつく。
ライバル相手に、なぜこんな気持ちにならなければいけないのか。否、そもそも未だにライバルなのかどうかも疑わしい。グリーンはライバルだと思っているが、肝心の相手がどう思っているのかがわからない。
そんな現実を突き付けられるたびに、胸がきりきりと痛むような気がするのがいちばん腹立たしい。誰の許可を得て心臓を握りつぶそうとしているのかと、自分の胸に八つ当たりをしたくなる。
つまり、傷ついているのか。その事実に向き合わなければいけないのが、なによりもいちばん嫌だった。
――できることなら二度と触れたくなかった、黒歴史だ。

(あの顔をもう一度見ることがあったら、絶対に殴ってやる)

殴られる理由を理解しているはずもないだろうが、説明してやるつもりは全くなかった。
控えめに見ても、付き合いの長い友人に対する礼は欠いている。少しくらいの報復は許されるはずだ。
……そんな機会がこの先の未来に用意されているのかどうかすら、今のグリーンにはわからなかったのだけど。

「まったく、なあ」

会いたい、と。
そんなこと思わない、と言えば嘘になる。
まだ、一緒にいた時間よりも、離れている時間のほうが短かかった。これが逆転してしまうまでは、このちりちりとしたなんとも言い難い気持ちと付き合うことになるのかもしれない。

(いい迷惑だ)

本当に、はた迷惑なことだ。いい加減にして欲しい。
まさか、何も告げられずに残された者たちが、グリーンが、レッドのことを心配しないとでも思っているのだろうか。本当にそう思われている可能性を否定できないあたり、ますます腹立たしい。
……そして、さみしい。

「どこで何やってんのかねえ、あいつ」

頬杖をついて、窓の外を見る。いつもどおりの風景が、そこには広がっていて。
今日も今日とて、いつも通りの日。ジムリーダーとしての雑務をこなして、そう頻繁に来るわけでもない挑戦者を待って、その間にこうやってヒビキとお茶の時間を過ごして。
三年の間に、これが普通になった。欠けているものがあることに、目をそらしたまま。
――もしかしたら、ガラにもなく感傷がため息に乗ってしまったのかもしれない。

「…………」

眉をハの字にしたヒビキが、なんだか泣きそうな情けない顔をしたまま、両手でミルクティーの入ったマグカップを抱えていた。