意思の疎通なんて最初からどこにもない
2
ひらひら、などという控えめな表現は間違ってもできない勢いで、雪が降り続いている。
雪、というよりはすでにあられだ。すでにいつものことなので、今さら驚くこともない。
「ぴかぁ」
肩に乗ったピカチュウが、洞窟の外へと視線をやりながら呆れたように一声鳴く。
まるで、今日もすごい雪だ、とでも嘆いているように聞こえて。
「…………」
レッドは、ほんの少しだけ目元をゆるめて、笑った。
オーキド博士からポケモンと図鑑をもらうことで始まった旅は、けっこう面白かった。
マサラタウンという小さな町しか知らなかったレッドの目には、なにもかもが新しく映った。街の人たちが見慣れてしまったようなものだって、なんだって。
そんな、おそらくレッド以外にとっては些細なんだろうものにことごとくひっかかっていたら、同時に出発したはずのグリーンにすっかり遅れをとってしまっていた。
スタートは同時だったとはいえ、べつに一緒に旅をしているわけじゃない。同じルートを通ると決まっているわけでもない。
ポケモントレーナーとして旅をしている以上おそらく最終目的地は同じで、そのためには八つのジムすべてに挑戦する必要があるから必然的に立ち寄る場所は絞られるとはいえ、その範囲は広大だ。なにしろ、カントー地方全域なわけだから。
(さみしいな)
ポケモンという相棒たちがいるとはいえ、基本はひとりの旅だ。十歳になるまでずっと幼馴染みのグリーンと一緒に過ごしてきて、ある意味ひとりになったことのなかったレッドは、当然のことながらさみしさを感じた。
べつに、人間嫌いでもなければ人間恐怖症というわけでもないのだ。単に、さほど他人に興味を抱いていないだけで。心の中を、言葉として表すことが得意でないだけで。
ただ、グリーンはまるで家族のように近しい存在であったから、レッドの中では『他人』というくくりの中に入っていなかった。
グリーンは根はけっこう優しくて世話焼きでさみしがりなくせに、とにかく口が悪かった。ついでに、虚勢を張って分厚い殻を作るのも上手だった。
その態度は、物心つく前からの幼馴染みであったレッドに対しても、基本的に揺るいだことはない。とりあえず、顔はかわいいのに生意気盛りで高慢な少年そのものだった。
(ほんとは、違うけど)
それを知っていた人は、たぶんそんなにいない。グリーンの姉であるナナミと、レッドの母と、あとはかろうじてオーキド博士くらいか。研究第一なあの博士はしょっちゅう孫たちのことより研究を優先してはいたが、それでも彼なりに可愛がっていた。
研究所で働いていた人たちも、少しは気づいていたかもしれない。でも、きっとレッドほどにはグリーンのことを知りはしない。
ナナミにはさすがに勝てないかもしれないが、オーキド博士よりはよく知っている、そんな自信すらある。
そのことに、レッドが優越感を覚えたのはいつだっただろう。
そして、旅に出てから目新しいものに意識を向けていたほんのわずかの間に、距離をあけられたことにほんの少しの焦りを感じたのは、いつだっただろう。
(置いていかれる)
なぜか、そう思った。先へ先へと、後ろを振り返ることなく進んでしまうグリーンの背中を見て。
それに、恐怖を感じた。
置いていかれたくない。少しくらい遅れるのはともかく、いつでも追いつけるところにいたい。
そう思って追いついた先で、グリーンと何度目かのバトルをした。その時、グリーンにバトルでは一度も負けていないことに気づいた。
いつもはレッドを見下したような言動をするグリーンが、バトルに負けたときは悔しがる。相変わらず上から目線の負け惜しみはいっそ感心するほどだったが、グリーンが自分を本当に見下しているわけじゃない、ということはレッドにもわかっていた。
むしろ、逆だ。
対等だと、レッドに『勝って当然』ではなく負けたくないと思っているからこそ、そういうことを言う。そういう態度に出る。本当に、わかりにくい。
でも、レッドには通用しなかった。実際にどういう言葉として現れるかはその日によるが、グリーンの心中なら手に取るようにわかってしまう。
ある意味、わかりやすいから。
ポケモンが好きだし、バトルも好きだった。バトルに勝つことも、好きだった。
でも、それ以上に。バトルの後、グリーンが自分を悔しそうに、でも口にする言葉とは裏腹にどこか満足そうに、にらみ付けてくる視線が好きだった。
聞けば、グリーンもほとんど負け知らずだった。つまり、グリーンを負かしたのはレッドだけ。
そう思えば、ますます嬉しくなる。なによりも、それが大切なものになった。
だから、決めた。
ポケモン勝負では、絶対グリーンに負けないでいようと。
他に、勝てそうなものがなかった、というのもある。もともとレッドは一点集中型で、興味のないものに熱意を注ぐことは難しいタチだったからだ。
そうすれば、グリーンに追いつける。対等でいられる。
《ライバル》でいられる。
互いに競い合う関係は、幼馴染み以上にレッドを熱くさせた。楽しくて、嬉しかった。
ずっと、このままでいたいと思わせるほどに。
(たぶん、一緒にいたかっただけなんだ)
レッドは、ひとりが好きなわけじゃない。むしろ、嫌いだ。
それなのに、なぜか今、シロガネ山にいる。頼もしい相棒たちがいる以上、本当の意味でひとりではないのだけど。
この世に生を受けてから十年の間、一度たりともひとりになったことはなかった。
十年目にやっと、一人旅というものをしてみた。でも、その旅はよくよく考えてみれば、誰かの――グリーンの後を追う旅だった。
会いたくなると、グリーンはいつだって待っていてくれた。レッドが心の中で何を思っていたかなんてわかるはずもないのに、まるでレッドの心を知っているかのように、待っていた。
そのたびにバトルをして、なにやら競争にこだわっているグリーンは必要以上に一緒にいてくれたわけではないけど、それでも楽しかった。
――なのに。
それは、セキエイ高原で終わってしまったのだ。
旅は、終わってしまった。そして、それ以上に。
……グリーンがレッドを見る目が、変わってしまった。
チャンピオンの間で待ち受けていたグリーンに勝ったとき、グリーンはいつものように悔しそうな顔をしていた。唇を、かみしめていた。
でも……それだけだった。
いつもレッドを安心させていた、どこか満足そうな視線がない。消えてしまっている。
それどころか、まるでレッドを拒絶しているように見えた。
(どうしよう)
その事実は、これ以上ないほどにレッドの足元をぐらつかせた。
旅は、終わってしまった。もう、レッドの前にグリーンはいない。
追いかけていけば、会えるというわけじゃない。足を止めて、グリーンが待っていてくれるわけじゃない。
グリーンがチャンピオンになりたがっていたことは、知っている。夢だと、そう言っていた。
もしかして、そのせいだろうか。
レッドはグリーンの横に並びたかったあまりに、彼の夢を奪ってしまった……?
(どうすればいい?)
ライバル、なんて。
本当に、そう思っていていいか。幼馴染みという絆は消えたりしないだろうけど、グリーンが今いちばんこだわっている《ライバル》という絆を、いつまでも保っておくことができるのだろうか。
レッドがグリーンに勝てることなんて、バトルしかない。他のことなんて、なにひとつ勝てない。勝とうと思ったことすら、たぶんない。
(じゃあ、グリーンにバトルで負けなければ、ずっとライバルでいられる?)
グリーンは、決して弱いわけじゃない。グリーンとのバトルは、レッドをなによりも高揚させる。
チャンピオンとして立ちふさがるグリーンと戦った時の高揚といったら、過去最高のものだった。今まででいちばん楽しかったバトル。レッドにとっては、そうだった。
グリーンは、いつもレッドと拮抗した戦いを繰り広げてくれるのだ。今まで、一度もレッドが負けていないのが不思議なほどに。
(でも)
もしかしたら、と思う。
もう、グリーンはバトルをしてくれないかもしれない。
(あの、目)
突き刺さるような視線。レッドとのバトルに、楽しさなんて欠片も見出していなかったような、あの瞳。
それを裏付けるかのように、チャンピオン戦の後、グリーンはしばらくレッドの前に姿を見せてくれなかった。
ふたりとも、マサラタウンに戻ってきているのに。いつだって、レッドが何も言わなくてもグリーンのほうから声をかけにきてくれていたのに。
(グリーンに失望された?)
……それは、絶対に嫌だった。
そして――今、レッドはここにいる。
一年中雪に埋もれた、この山に。
シロガネ山は、修行場としては絶好の場所だった。凶暴な野生のポケモンが多いせいで、そもそも一般人は立ち入ることすらできない。ジムバッジを十六個集めなければ入れないと聞いて、とりあえずジョウト地方のジムをひととおりめぐってきたのは、さていつのことだったか。そんなに時間もかからなかったせいで、あまり覚えていない。
ただ――今思えば、わざわざカントー以外のジムバッジを集めなければ入れないような、それなのに限りなくマサラタウンに近い場所を選んだ理由は、他にもあったのだろう。
レッドが最後にグリーンに会ったのは、セキエイ高原で。
あの時に見てしまったグリーンの目が、レッドにどうしようもないほどの動揺を与えたわけで。
……もう、あんな目で見られたくなかっただけ、なのかもしれない。
あの目から、逃げ出しただけなのかもしれない。
――今となっては、それも否定できない。
「……どうして、山を降りないんですか?」
帽子をかぶった紺色の髪の少年が、じいっと見つめてくる。たしか、名前はヒビキとかいった。
少年の後ろには、すでに見慣れたシルエットのポケモン。
たしか、バクフーンとか言ったか。トレーナーに懐いているのがよくわかる、よく育てられたポケモンだ。
彼とは、前に一度戦った。あっさりとうち破ってしまったけど、きっと強くなるだろう。
そんな、気がしている。
だから。
「強く、なりたいから」
素直に、答えた。
強くなりたい。強くならなければいけない。
だって、そうでなければライバルでいられない。
幼馴染みという絆だけでは満足できなくなってしまった以上、その絆を手放すわけにはいかない。
どうしても、強くなりたかった。グリーンに失望されないくらいに。
(負けなければ、追ってきてもらえる?)
きっかけは、ただそれだけ。
ただ、並んでいたかっただけ。
そのためにできることを、ひとつしか思いつかなかっただけ。
ただ、レッドは気づいていないのだ。
――あれから、どれだけの時が流れてしまったのか。
時計など存在しないシロガネ山では、時の流れなどあまり意味をなさないものだったから。
ひねくれたきみが何を考えているかは、大体わかる。
でも、それをどんな言葉で表そうとするかは、正直なところわからない。
そして――ひねくれすぎても、やはりわからない。
まるで、深淵の闇のように深すぎて。