言うなれば後悔先に立たず

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──そういえば。
そいつは、最初から様子がおかしいといえば、おかしかった。

「あのぉ……グリーンさん、ちょっといいですか?」
「あん?」
「お仕事中だっていうのは、わかってるんですけど……」
「いいぜ。なんだよ?」
「う……やっぱり、いいです。ごめんなさい」
「へ?」
「うううう」
「……ヒビキ?」

じつは先刻から、時間を空けて何度かこんなことが続いている。
ヒビキがトキワジムに遊びにくるのは、よくあることだ。というか、いつものことだ。
ジムリーダーであるグリーンとのバトルが目的のこともあれば、ただ遊びにくるだけのこともある。遊びにくるだけのつもりでも、結局バトルをしていくことも多い。グリーンが知っている将来有望なトレーナーたちの中でもヒビキは群を抜いて強いが、群を抜いてバトル馬鹿だった。
今日もなにやら難しい顔をしてジムを訪れたので、ポケモン勝負でもしたいのかと普通に思った。
挑戦者は他にいなかったのだが早急に片づけなければならない雑務があったので、とりあえず執務室に通して茶を出して、そのまま放置していた。ヒビキはそんな雑な対応をしても文句を言わない、やんちゃなわりには行儀のいい子どもだ。
なので、とりあえずさっさと用事を済ますのがいちばんマシな対応だ、と思っていたのだが。

「あうう……」

何か言いかけてはやめ、やめては言いかけ、を繰り返すヒビキを放っておいたら、なんだか放置しておいたことに罪悪感を抱いてしまいそうな有様になっていた。
ヒビキはいつでもまっすぐな、素直で前向きかつ押しの強い子どもだ。
なのに、今のヒビキにはその面影がどこにもない。ヒビキらしからぬことを、えんえんと繰り返している。
……さすがのグリーンも、心配になってきた。
こう、色々な意味で。

「おい……大丈夫か、マジで」
「へ」
「熱とかあるんじゃねえだろうな」

顔色はさほど悪くなさそうだが、ヒビキの眉間にはしわが寄って、大変苦しそうな顔になっている。
じつは風邪で具合が悪い、と言われても納得できそうな様子だ。

(風邪薬、あったっけかな)

数年前までは旅をしていたくらいだし、グリーンも比較的丈夫なほうだからあまり風邪には縁がない。それでも、確か二晩徹夜で事務仕事をこなした直後に高熱を出してぶっ倒れた時にジムトレーナーが風邪薬を買ってきてくれてから、まだ一年は経っていないような気がする。
あれ以来、その薬の世話にはなっていないから、たぶん残っているはずだ。服用期限さえ切れていなければ。
だが、グリーンに真顔で体調を心配された当のヒビキは目をまん丸くしてぽかんと口を開けると、あわてて両手をぶんぶん振ってそれを否定する。
なんでそういうことになるのかさっぱりわからない、と顔に書いてあった。大変、わかりやすい。

「えっ。べっ、べつに具合悪いとかじゃないです。ほ、ほんとです。いたって平熱です、くしゃみもしてないですし咳も出てません」
「んだよ、まぎらわしいヤツ」

わざとらしく舌打ちすれば、ヒビキは「あわわわわ」と意味をなさない擬音を発しながら頭を抱えた。……これまた、ヒビキらしくない。

(本気で大丈夫か、こいつ)

正確なことを言えばグリーンが勝手に誤解したわけだが、それは棚に上げておく。
とりあえず、片づけなければいけない仕事は大体カタがついた。報告書もメールで送っておいたから、しばらくは大丈夫だろう。
今日は、ジムに挑戦者が来そうな気配もない。大体、挑戦者が来たところで、ジムリーダーのグリーンまでたどり着くことはまれなのだ。
つまり、どう見ても本来の調子を失っているこれからヒビキに付き合っても、特に問題はないということだ。

「よっと」
「え……グリーンさん?」

適当に作業用デスクの上を片づけてから、半分ほど中身が残っているマグカップを片手に立ち上がる。そのまま場所を移動して、グリーンは来客用のソファに埋もれてなにやらうめいているヒビキの対面へと腰を下ろした。
グリーンの行動が理解できないのか、ヒビキが目をぱちくりとさせている。もしかしたら、自分がどれだけの時間そこで百面相をしていたのか、気づいていないのかもしれない。

「もう、終わったんだよ」
「あ……そう、なんですか」
「で? どうしたんだ、一体。なんか悩みでもあんのか? 無理には聞かねえけど」
「…………」

ことん、と。高さの低いテーブルに、マグカップを置いた音が響く。
口にしたとおり、無理矢理聞き出す気はない。だが、ヒビキは朝一番に何かを思い詰めたような顔でやってきて、しかも何かを言いかけてはやめて、をずっと繰り返していた。
どう考えても、何か言いたいことがあるのだろう。聞きたいこと、かもしれない。
ただ、それを口にする勇気が、たぶん足りていない。そんなに、言いにくいようなことなのか。

(どんな無理難題、抱え込んだんだか)

正直、想像すらつかなかった。
ヒビキのことだから、プライドが邪魔して言えない、などという罠に陥ったりはしない気がする。グリーンはそれこそ幼い頃からその落とし穴にハマるのが得意だったが、グリーンと同じ轍を踏むのはおそらくヒビキではなくて、赤い髪を持つ彼のライバルのほうだろう。
そう思えば、少しそのライバルくんが哀れになる。まったくもって他人事だが。

(どーせ、ライバルなんて永遠に片思いなんだよ)

二回ほど会ったことのある赤い髪の子どもの顔を脳裏に思い浮かべながら、心の中でそう呟いてみたら、よけいにへこみそうになった。そのまま、ダイレクトに自分自身へとその言葉が跳ね返ってきたせいだ。

(アホだ、俺)

今、ここでグリーンがへこんだところで意味などない。
ヒビキが何かしらの悩みか相談事を口にする覚悟が決まるまでの時間つぶしにはなったが、あまりにも自虐的すぎだ。
半ば自棄になって、グリーンはぬるくなってしまったマグカップの中身をあおる。お子さま仕様にミルク多目で作ったカフェオレは、もうほとんど残っていなかった。
当たり前だが、カップの底にこびりつく茶色い跡を眺めていても気分は浮上しない。
さて、どうしたものか。
とりあえずヒビキが何か反応を示すまでの時間でも数えてみることにした途端、グリーンの耳には待ち望んだ声が飛び込んでくる。
でも、ぽつりとこぼされたその呟きは。

「……じつは、その。どうしても、勝ちたい人がいるんです」
「へ」

──ちょっとどころではなく、意外なものだった。

「……おまえ、辞退しちまったけど間違いなくセキエイリーグのチャンピオンだよな?」
「え、チャンピオンはワタルさんですよ?」
「そのワタルを何回倒してんだよ。つーか、何回殿堂入りしてんだよ? 本気のワタルも倒したんだろ? そんなに何回もリーグに挑戦すんなら、おとなしくチャンピオンやっときゃいいのに」
「え、イヤですよ!」
「まあ、言うと思った」

顔をしかめてチャンピオンなて嫌だと主張する年下の子どもに向かって、グリーンは苦い笑みを向ける。このテの主張を聞かされるたびになんとも言い難い気分になるのは、もういい加減慣れた。
それに、ヒビキがあのチャンピオンの間でじっとしている光景なんて、グリーンだって想像できない。ジムバッジを16個集めた今でも、毎日のようにあっちこっちを飛び回っているのだ。
チャンピオンだって年中あの部屋にいるわけでもないが、挑戦者が来ればどこにいたって即座に呼び戻される。そんな制限すら、今のヒビキには煩わしいものなのかもしれなかった。

(それも、けっこういいモンだけどなー)

旅は、楽しかった。今だって、機会があればもう一度旅に出てもいいな、と思う。
でも、こうやって居るべき場所、帰るべき場所、やるべきことを持ったうえで、目を輝かせて旅をする将来有望なトレーナーたちを送り出す立場となるのも悪くない。
最初は、何かへの当てつけが大半だったかもしれないが(主に、一言もなしに姿を消した自由すぎる幼馴染みにしてライバルに向けての)、今ではけっこう向いていたのかもしれない、とも思っていた。

「特に、あのマント! 信じられない!」
「そこかよ。や、あれはチャンピオン専用じゃなくて、どっちかっつーとフスベ出身のこだわりじゃね……?」

少なくとも、グリーンがチャンピオンだった時にはあんなマントの着用は義務づけられていなかった。着ろと言われても、断固拒否しただろうが。

「そういえば、イブキさんもなんかマント羽織ってました」
「だろ? あいつらが変わってるだけだよ」
「フスベの方々の美意識って独特なんですね……常識もなのかな。ワタルさん、人間相手にはかいこうせんぶっ放してましたし」
「マジかよ! 何考えてんだ、あいつ」

やっぱり、リーグを制覇するようなヤツはどこか頭のネジが数本飛んでないとダメなのか。いや、だがそうだとすると、グリーン自身も当てはまってしまう。
それは、勘弁だ。べつに普通でいたいわけではないし、どちらかというと特別とかそういうモノが好きなタチのグリーンだが、どちらかといえば後ろ指を指される方の特別にはあまりなりたくない。昔はあまり気にしなかったが、今は気にする。

(俺も、少しは大人になったんかね……?)

そんなことを考えること自体が子どもの証だということもわかっているが、3年前よりも常識というものが身に付いたのは確かだろう。
……というか、今はそんな話をしていたわけじゃない。

「……いや、それはどーでもいいや」
「え、いいんですか。そんなんでいいの、ポケモンリーグ……」
「ワタルのことは正直、どうでもいい。それより、おまえがどーしても勝ちたいヤツのほうが気になる」
「あ……」
「今のリーグチャンピオンは、確かにワタルだけどな。現時点で、おまえは最強のはずなんだぜ? ヒビキ」

改めて、事実を並べてみる。ヒビキは悔しそうに表情を歪ませて、膝の上でぎゅっと両手の拳を握りしめた。
ジョウト地方のジムを制覇してセキエイリーグのチャンピオンを倒して殿堂入りを果たし、カントー地方のジムバッジもすべて集めたヒビキは、間違いなくこの界隈では最強のトレーナーだ。
グリーンも、たまにジム戦用ではない本気の手持ちでヒビキと勝負することがある。さすがに全敗とまではいかないが、勝率は今のところ通算でギリギリ半分だ。最初はグリーンが白星を挙げることのほうが多かったものの、最近はヒビキが勝つことのほうが多い。
そんなヒビキが、どうしても勝ちたいというほどの相手。
気にしない、というほうが無理だ。

「……そのはず、なんですけど。まだ、一度も勝てたことがないんです」
「マジかよ。そりゃまた、どんな怪物だっつの……リーグに所属してるヤツじゃないのは確かっぽいな」
「だと、思います」

一瞬、赤をトレードマークとする幼馴染みの姿が脳裏をよぎったが、グリーンはその幻影を瞬時に振り払う。

(んな都合のいいこと、あるわけねえだろ)

大体、グリーンだってかなりの時間をかけて探し歩いたのだ。ヒビキがあっさり見つけられるような場所にいられたら、たまらない。
……それよりも。
グリーンが気になるのは、もっと別のことだ。

「つーかだな。なんで、それをわざわざ俺に言いにきたんだ? しかも、改まって」

しかも、思わずこちらが心配になるほど、言いにくそうに。
まるで、ものすごく悪いことをしでかして、それについて懺悔しにきたような様子だった。
なのに、いざヒビキから聞き出してみれば、躊躇する理由すら見つけられない。勝てなくて悔しいにしたって、ヒビキだったら普通にジムへ駆け込んできて悔しいと叫ぶだけだろう。

「……じつは、その」

またしても、ヒビキが言いにくそうに言葉を濁す。
──少し、嫌な予感がした。

(え、なに、俺もしかして墓穴掘った?)

ヒビキが、ここまで言いよどむくらいだ。よほどとんでもないことが飛び出してくると、覚悟しておいたほうがいい。
自慢じゃないが、グリーンは墓穴を掘るのがけっこう得意だった。いつの間にこんな特技ができてしまったのかわからないし、はなはだ不本意だとはいえ認めないわけにもいかない。
ただ、あくまでも自分の中でだけ、だ。そんなもの、吹聴して回る趣味はない。
とりあえず、思いっきり警戒してヒビキを見遣る。当のヒビキは、まったくグリーンの態度に気づく様子はなかった。
膝の上で拳を握りしめたまま、しばらくうつむいていた顔を勢いよく上げる。その目には、強い意志が宿っていた。
──半ば、やけっぱちにも見えたが。

「あのっ、強くなるための修行に、付き合ってもらいたいんです! グリーンさんに!」
「…………は?」

……そして。
幸いにも嫌な予感は当たらなかったが、告げられた言葉はまったくもって理解不能だった。

「え、だから、ぼくとバトルして欲しいんです。毎週日曜夜だけ、とかそんなケチくさいこと言わないでもらえると、すっごくうれしいんですけど」

どんなに言いにくいことでも、一度口にしてしまえば開き直れるモノなのかもしれない。
ヒビキは臆した様子もなく、相変わらず真剣な表情でじっとグリーンの顔を見上げている。しかも、その目に宿る力は半端なかった。先刻までの様子が嘘のようだ。

(まさか、演技してたってワケじゃねえよな?)

さすがに、それはないと思う。思いたい。
ヒビキはそこまですれていなかったはずだ。たぶん。
……とりあえず、だ。いくら意味がわからないとはいえ呆然としている場合でもないので、ヒビキに言われた言葉を振り返る。そして、考える。
──普通に、ツッコミどころが満載だった。

「いや、それならそれこそワタルを相手にしたほうがいいんじゃねえの? ワタルなら時間制限とかねえし、四天王も一緒に相手してくれるぞ? つーか、俺よりワタルのほうが強いだろ、主にあのドラゴン軍団が。種族値サギくさいけど」

ほんの少しの動揺からなんとか立ち直って、グリーンは至極まっとうなことを言ってみる。
強くなりたい場合、手持ちのレベルを上げるなら、日曜の夜しか時間があかないグリーンをとっつかまえるよりいつでも相手をしてくれる四天王やワタルに頼んだほうが、おそらく効率はいい。
彼らは皆、得意タイプを極めるエキスパートたちだから、得意タイプを決めずにバランスを重視するヒビキには少しばかり戦いにくい相手かもしれないが、修行なんてそんなものだろう。あえて不利なタイプで望むというのも、悪くない。
と、一応カントー最強を誇るジムリーダーとしての助言、だったのだが。

「グリーンさんじゃないとダメなんです!」
「うおっ?」

先刻よりも真剣に、というか鬼気迫る勢いで詰め寄られて、グリーンは思わずのけぞった。
やっぱり、意味がわからない。

「なんで」
「どうしてもですっ」
「理由を言う気はない、と」
「うううう、そこをなんとかっ! お願いしますっ!」

しまいには、両手を合わせたヒビキに拝まれてしまった。

(マジで意味わかんねえ)

額に手を当てて、思わず天を仰ぐ。視界に映るのは、見慣れたトキワジム執務室の天井だ。
相変わらず意味はさっぱりだが、この様子では問いただしてみたところで納得できそうな答えが返ってくるとは思えない。
可愛らしい見かけに反して、この子どもはけっこう頑固だ。一度言い出したら、テコでも動かない。

(ああ、くそっ、ちくしょう。こんなとこまでレッドに似てやがる)

ヒビキがトキワジムへ来るたびに思うことを、今さらのように痛感させられる。
結局、ここまで持ち込まれたら、もうグリーンの負けだ。
様々な要素が重なってしまったせいで、間違っても「嫌だ」なんて言えない。

「はぁ……しゃーねえな」

大きなため息をついて、グリーンはソファから立ち上がる。
立ち上がるとほぼ同時にその手が伸びた先を目にして、ぱっとヒビキの顔が輝いた。

「グリーンさん!」
「強く、なりたいんだろ? 付き合ってやるよ」

手にしたのはジム戦用ではなく、プライベートで持ち歩いているモンスターボール。
平日の真っ昼間にこれを手にするのは、じつに久しぶりだ。

(まあ、いいか)

グリーンだって、強い相手と勝負するのは好きだ。
ヒビキなら、相手にとって不足はない。
どうして、グリーンでなければいけないのか。その理由は想像すらつかないが、追求するのは後でもいい。
それに。強く、なりたいのだ。グリーンだって。
今はどこにいるかすらわからない幼馴染みの、ライバルであるために。
でも、今はとりあえず。

「はいっ! よろしくお願いしますっ!」

嬉しそうに笑うこの後輩の期待に、全力で応えてやるとしようか。