言うなれば後悔先に立たず

2


ヒビキは、いまだかつてないほどに後悔していた。

まだこの世に生を受けて11年、ワカバタウンを旅立ってから1年と少しくらいしか経っていない。
そんな少ない経験しか積んできていないヒビキにも、とてもやっかいなことに首を突っ込んでしまった、ということくらいはわかる。
しかも、他の誰に言われたわけでもない。自分から進んで、突っ込んでいってしまった。
最初にあの人の話を聞かせてくれたグリーンのせいにするのは簡単だが、やはりどう考えてもグリーンのせいだとは思えなかったので、そのテも使えない。

(きっかけだったのは、間違いないけど)

グリーンの話を聞いて、その人に興味が湧いたのは事実だ。
そして、その時のグリーンの様子や態度が、気のせいかもしれないけど普通ではなかったから、よけいに気になってしまった。それも、嘘じゃない。
ヒビキは、3歳くらいしか歳の違わないトキワジムのリーダーに、かなり懐いていた。いつでも余裕があって、でもやはり3歳しか違わないだけあってどこか子どもっぽくて、そのくせに大人で口が悪くて、なんだかんだ言いながらも面倒見の良いグリーンを尊敬していたのだ。ヒビキには兄弟がいないから、どこか兄のようにも思っていた。
だから、自分にできることがあるならなんとかしたいと、つい思ってしまったわけだ。

(だって、気になるよね?)

あの負けず嫌いのグリーンが、いつか自分が倒すまで他のヤツに負けるんじゃねえとか言うグリーンがどこか諦めたような、それなのにさびしそうな顔で遠くを眺めていたなんて、気にならないほうがおかしい。
グレン島でどこか遠くを見ていたのを見つけた時も、いたたまれなくてどうしようと思ったけど、結局はその空気をぶち破って話しかけた。その時はバッジを見せたらすぐに今のヒビキがよく知るグリーンの雰囲気になったが、あの時──レッドの話をしていた時のあのいたたまれなさはそれ以上だった。
そして、いざそう決心したものの、ヒビキにできることなんて、じつはそう多くない。グリーンが探していたレッドという人物を、かわりに見つけだすことくらいだ。
というか、それしかない。
だから、まずは強い人の噂を聞いて回った。ロクに集まらなかったので、今度はハナダの洞窟やふたご島の最奥などの、強いポケモンや伝説のポケモンが出没すると言われる場所を巡った。
ミュウツーやフリーザーには会えたのに、探しているレッドには会えなかったから、今度は16個のジムバッジとロッククライムの技がないと足を踏み入れることすら許されないシロガネ山に登った。
シロガネ山は、言うなれば天然の要塞であり、そして人を拒む迷宮だ。しかも複雑に入り組んだ洞窟の中を進む分にはともかく、外に出て山頂に近くなればなるほど吹雪が酷くなる。
いくらなんでも、こんなところに人がいるわけがない。さすがにそう思ったものの、どうせなら行けるところまで行ってみたいなとか欲が出てしまって、結局頂上まで行ってしまった。
そうしたら──そこで、見つけたわけだ。
まさか、生きている人間がいるなんて思えないようなところに、その人はいた。
グリーンから聞いていたトレーナーとしての強さもけっこう無茶苦茶だったが、どうやら想像以上にその人は人間離れしていたらしい。
大体、なぜこのあられの降る雪山の頂上で半袖なのか。理解に苦しむ。

(でも最初見た時は、まさかあの人が『レッドさん』だなんて思わなかったよ……)

じつは、雪山の頂上に半袖で佇む奇人変人が探し人その人であったということに気づいたのは、二度目に会った時だった。
なにしろ、初回は言葉を発する前におそろしいプレッシャーと共に問答無用でバトルを挑まれ、相手のポケモンをかろうじて1体瀕死状態に追い込んだだけで目の前が真っ白になったのだ。あんな悪魔のような強さをほこるピカチュウを、ヒビキは初めて見た。
しかもかなり動転していたせいか、グリーンの話とそのシロガネ山のトレーナーがその時はまったく結びつかなかった。それでも本当にあれは生きている人間だったのか確かめたくて、翌日速攻もう一度頂上まで行ったときに、やっとその人の名前が『レッド』であることを知ったのだ。
なぜ、名前を知ることができたのか。
それは、日にちを空けずにシロガネ山を登ってきた人がめずらしかった──というか、たまたま連れ歩いていたバクフーンを、相手が覚えていたからに他ならない。
……人間の顔じゃなくてポケモンの顔で判別しているのか、というツッコミはしないでおいた。



「……昨日の子?」
「え?」

その人が不思議そうに首を傾げた途端に、今までチリチリと肌を刺すように感じていたプレッシャーはきれいさっぱりと消え去った。
表情も、違う。感情の一切を排したような冷たさしか感じなかった瞳から、まるで凶器のような鋭さが消えていた。相変わらず感情を映してはいなかったが、気圧されるような迫力はもうどこにもない。
そして、形容しがたいオーラが消えてしまえば、その人はどこかぼんやりとした雰囲気を放っていて。
その雰囲気を崩さないまま、ゆっくりと右手をあげてヒビキの後ろを指差す。

「その、首周りがトゲトゲしてる子」
「あ……バクフーンですか?」
「そう。この間、初めて見たから」
「え、そうなんですか」
「うん。かわいいね。それに、よく育ってる」
「わあ、ありがとうございます!」

確かに、ヒノアラシの進化系であるバクフーンはちょっとめずらしいポケモンだ。図鑑に項目はあっても、なかなか目にすることはできない。

(だから、覚えてたのかな?)

とりあえず、悪い人ではなさそうだ。
旅のいちばん最初からずっと一緒のバクフーンをほめられて、ヒビキはじつに単純にそう判断した。

「ちゃあー」

赤い帽子に、赤いジャケット。なぜか半袖姿のその人の肩の上で、この間ヒビキの手持ちを蹴散らしたピカチュウが楽しそうに小躍りしている。もしかしたら、バトルをしない客がめずらしいのかもしれない。

(あ、そうだ)

そこで、ヒビキはふと気づく。
そういえば、名乗っていなかった。この間は、名乗る前にバトルが始まってしまったから。

「あ、ぼく、ヒビキって言います。この間はありがとうございました」

ぺこりと頭を下げて、ヒビキは改めて挨拶をする。なんとなく初回のことを思い出すと、このチャンスを逃したらマトモに名乗れない気がした、というのもある。
はっきり言って、この間は久しぶりにボロ負けした。でも、乗り越えるのに相当時間がかかりそうなバカ高くて分厚い壁にぶち当たったことに気づいた時、ヒビキはそれはそれで興奮したのだ。
負ければ悔しいのは当たり前だが、それだけに勝ちをもぎ取ったときの喜びは大きくなる。苦労すれば苦労するほど、得たモノは輝きを増すわけで。
相当苦戦するだろうが、絶対に勝つ。いつか、勝つ。
そのためにも、相手の名前はちゃんと聞いておかなければならない。そして、自分の名前も伝えておかなければならない。
ただ、それだけだったのに。

「……僕はレッド」
「…………え?」

いざ、耳に聞こえてきたのは、ものすごく聞き覚えのある名前だった。
そんなの、当たり前だ。聞き覚えがなければ困る。
そして──名前という最後のピースを入手すると同時に、ヒビキの中ですべてが繋がった。

(って、つまり)

そう。
この人が、探し人。

「もっ、もしかして、レッドさんですか!? グリーンさんの幼馴染みで、ライバルの!」
「……グリーンを知ってるの?」

詰問する勢いで叫んだら、レッドがほんの少しだけ目を丸くする。
それが、何よりもの答えだ。グリーンのことを知っている、『レッド』。
たまたま偶然が重なった別人、ということはありえない。思いがけない遭遇に、どんどんヒビキのテンションが上がっていく。
──嬉しかったのだ。それはもう、いろんな意味で。

「知ってますよ! っていうかトキワジムのジムリーダーですから、知らない人のほうが少ないですよ。ぼくも、すごくお世話になってます」
「……ふうん。ジムリーダー……」
「グリーンさん、心配してましたよ。全然、連絡ないって……どこ行っちゃったのかって」
「そう」
「それにしてもレッドさんって、ほんと強いんですね。グリーンさんの言うとおりだったなあ……」
「…………」
「ぼく、これでも
グリーンさんとも、五分五分の勝負はできるのに」
「……五分五分? グリーン相手に?」
「え、あ、はい。一応、最近は五分以上です」
「…………そう」

その時、だ。
気のせいだろうか。少し、レッドの雰囲気が変わった──気がした。

(……あれ?)

べつに、バトルの時のような凄絶な闘気を放っているわけではない。
ただ、何かが変わった。ヒビキにはよくわからなかったけど、何かが。

(何だったのかな、今の……?)

とにかく、だ。
なんの偶然か、ヒビキはレッドを見つけることができた。
これで、目的は達成だ。きっと、グリーンは喜んでくれる。

「一度、グリーンさんに顔を見せに行ってあげてください。ほんとに、心配してるんですよ。1回連絡するだけでも、だいぶ違うと思うんですけど」

いくらなんでも、幼馴染みでライバルが心配していると聞けば、少しくらい面倒でも安否を知らせに行くだろう。
ヒビキが知らせてもいいのだが、本人の顔を見なければきっとグリーンは納得しないと思う。それくらいに、心配していた。
それに、一言もなしにいなくなったのは、グリーンには言う必要性を感じなかったからじゃないか、とも言っていた。どこか、自虐的に。

(やっぱり、本人を見ないとだめだよね)

だから、ヒビキはレッドに山を下りて欲しかった。ほんのちょっと、街へ買い出しに行くついで、とかでもいいから。
グリーンにはさんざん世話になったし、これくらいの恩返しはしたっていい。
そんな、ちょっとした自己満足にも浸っていたのに。
──その自己満足は、ほんの一瞬で吹き飛ばされることとなる。

「下りないよ」

はっきりと。
とりつくしまもないほどあっさりと、レッドがそう言い切ったからだ。

「……え」
「まだ、下りない。今はまだ、下りるわけにいかないから」
「でも」
「絶対、下りない」
「…………」

レッドの瞳は、冗談を言っているようには見えなかった。
本気で、そう思っている。たとえ誰がなんと言おうと、下りないと。
……少しだけ、ヒビキの心の中にもやっとしたものが広がる。
でも、ヒビキはめげなかった。

(……じゃあ、ぼくがレッドさんの居場所をグリーンさんに教えればいいんだ)

レッドに自主的に山を下りてもらうことができないのなら、逆にグリーンから会いに行ってもらえばいい。
今までグリーンがそうしなかったのは、ひとえにレッドのいる場所がわからなかったからだ。どこで何やってんのかねえと、窓の外へさみしそうな視線を向けていたのを見てしまえば、嫌でもわかる。
なのに。

「……ダメだよ」

レッドは、そんなことを言うのだ。口角を少しだけあげて、見ようによっては冷たい笑みのようなものを浮かべながら。
──まるで、ヒビキの心を読んだかのようなタイミングで。
ぞくり、と背筋に悪寒が走る。
寒さのせいではない。確かに、ここは震えがきてもおかしくないほどに寒い場所だったけど、今のは違う。
これはたぶん、恐怖だ。レッドの強い眼光と、放つプレッシャーのような気配に身体が怖じ気づいている。

「な……」
「グリーンに、言ったらダメだよ。僕が、ここにいること」
「ど……どうしてですか」
「どうしても。絶対に、ダメ」

さっぱり、意味がわからなかった。
どうして、そうなるのか。なぜ、そこまでしてここに固執する必要があるのか。
ここには、何もない。あるのは極寒の、人が暮らせるとは思えないような過酷な環境だけだ。
大切な人を切り捨ててまで、いなければいけない場所だとは思えない。
もしかしたらグリーンがぼやいていたように、この人はグリーンのことをもうライバルとは思っていないのだろうか?
……でも、たぶんそれはありえない。本当にどうでもいいのなら、居場所を教えてはダメ、などとは言わないだろうから。
レッドの瞳には、やはり感情らしきものは浮かんでいない。何を考えているのか、わからない。
だから……せめて、これだけは聞いておきたいと思った。
ヒビキは、勇気を総動員して口を開く。ただひとつのことを、聞くために。

「……どうして、山を下りないんですか?」
「強く、なりたいから」

──でも。
その答えに、納得することなどできないのだ。

「でも……っ!」

納得など、できるわけがない。
こんなところにひとりでいて強くなるなど、そんなことできるはずがない。
何より、ヒビキはそんなことをしたくない。だから、理解できない。
だけど、ヒビキはまだ11歳だ。自分の気持ちを、考えを余さず伝えるだけの力がない。
だから、もどかしくてもただ異を唱えることしかできない。
……その時、だった。

「……僕に勝ったら、いいよ」
「え」

レッドがまったく笑っていない目のまま、そう続けたのは。

「きみが僕に勝ったら、グリーンに教えてもいいよ。……そのときは、山を下りてもいい」
「な」
「自信ない? グリーンには勝てるんでしょ? 五分五分、でも」
「…………」

無意識のうちに。
ヒビキは、ぎりっと歯をかみしめる。
自信なんて、あるほうがおかしい。昨日、レッドの手持ちたった2匹に全滅させられたばかりだ。こてんぱんにのされた、と言っても過言じゃない。
これでも、この界隈では最強のはずだった。でも、レッドの強さは反則的だ。まず、レベルが違いすぎる。
……ただ。ヒビキにはひとつだけ、わかったことがある。
突然、レッドの雰囲気が変わった理由。あくまでも、想像でしかないけど。
もし、それが間違いではないのなら。
──絶対に、勝たなければいけない。

「……それ、ホントですね? ぼくが勝ったら、いいんですね」
「僕は、嘘はつかないよ」
「…………わかりました」

なら、引くわけにはいかなかった。
この人は、ヒビキと似ている。でも、大きく違う部分もある。
その違う部分を、賭けての戦いになる。それは、ヒビキの勝手な思い込みかもしれなかったけど。
グリーンのためだけ、ではなくて。
ヒビキ自身のために、負けられない。どうしても。

「絶対、あなたに勝ってみせます」

だから。
目に、すべての気持ちを込めて。
ヒビキはシロガネ山の頂点に立つその人に、その言葉を突き付けた。