言うなれば後悔先に立たず

6


「ほれ」
「……ん」

水を含ませてからしっかりと絞った冷たいタオルを顔の上にかざせば、開きもしなかった口からくぐもった音が漏れた。
まともな言葉にすらなっていないその音を、はたして声と呼んでいいものかどうか。

(言葉なんて上等なもんじゃねえな)

とりあえずそう結論づけて、グリーンは横向きでソファに転がっている珍客の上にタオルを落とす。そりゃあもう、手加減なしに。
顔面は右ストレートの直撃をくらったせいで痛い、後頭部はコンクリートの壁に勢いよく激突したせいでみごとなコブができている。前も後ろもダメな以上、側面しか体重をかけても平気な場所がなかったせいで、珍客──レッドはそんな体勢になっているわけだが。

「…………だから、いたい」
「そりゃな」

立っているグリーンが手にしていたタオル、しかも固く絞ったものをおおよそ胸くらいの高さから落としたら、どう考えても痛い。
しかも、腫れている右頬へと見事にヒットした。もちろんグリーンはそれを狙っていたわけで、さすがにレッドの視線が恨めしそうなものになる。
それでも、特に悲鳴を上げるわけではないところが、レッドらしいというか。

(一応、痛覚はあるんだな)

感心すべき部分を間違えている気はするが、何しろいろいろと規格外すぎる人物なので仕方がない。
とりあえず、手加減なしにぶん殴った相手を自分がリーダーを務めるジムの執務室に運び込み、やはり自分が負わせた傷の手当てを適当とはいえしてやった以上、必要最低限の義務は果たしたはずだ。グリーンは、心の中でひっそりとそう主張した。

「つーか、おまえ今までどこで何やってたわけ?」

と、いうわけで。
ここからは事情聴取に入る。
執務室の中央を占拠しているソファの前に立ったまま、その上に転がっているレッドを見下ろす。のろのろと緩慢な動作で腕を動かしてから落とされたタオルを広げたレッドは、頬と後頭部、どちらにそれを当てるべきか悩んでいるようだった。
そのせいで、せっかくグリーンがわざわざ用意してやったそれは、未だに本来の役目を果たしていない。

(ぬるくなるだろーが)

イライラしてきたのでレッドの手からタオルを取り上げて、上向いていた右頬にもう一度落としてやった。ぺちん、と音を立ててタオルがレッドの顔を隠す。

「……だから、痛いってば」
「そりゃな。で、どこで何してたの」
「シロガネ山で、修行」

問いには、本気で意味のわからない答えが返ってきた。

「……その格好で?」
「そうだけど」
「…………」

グリーンの目がおかしくなっていないのであれば、目の前の人物は紛うことなく半袖姿だった。
このあたりで半袖姿というのは、まあいい。だいぶ気温も下がってはきたが、一応まだ半袖でも許される気がする。それだって、「寒くないの?」と道行く人に聞かれそうだ。
だが、シロガネ山は一年中雪に包まれている。
頂上には、あられだって降っているという。
山男だって、そうそう足を踏み入れない場所だ。大体、一般人は立ち入り禁止だった。
そんな極寒の雪山で、半袖。
しかも修行。

「発想がナナメ上すぎんだろ、おい」

もう、ため息しか出てこない。
怒りは、一発殴ったらすっかり抜け落ちた。顔を見て安心したのか、心配もどこかへいった。
だとすれば、残るのはレッドに会えた嬉しさだけか──と思えば、そうは問屋が下ろさない。今、グリーンの気持ちは一気に呆れで塗りつぶされたところだ。

「だって、強くなりたかったから」

顔の上に落とされたタオルの下で、レッドがぽつりと呟く。
……ある意味、グリーンも予想していた通りの答えだ。

「それ以上かよ」

だから、ため息混じりに鼻で笑ってやるくらいしかできなかった。
現最強のトレーナーであるヒビキが、勝つためにあれだけ苦労したのだ。それほど強いのに、まだ強くなりたいと言うのか。
──より高みを目指したくなる気持ちはわからなくもないが、それにしても。

(本気で、何考えてるかわかんねえ)

グリーンはしみじみと、そう思う。今さらだが。
だが、タオルの下から聞こえてきた少しくぐもった声は、少しだけグリーンが想像していなかったことを呟いた。

「グリーンに負けたくなかったから」
「…………」

少しだけ、グリーンの心が揺さぶられる。
タオルに隠されていて、レッドの表情は見えない。見えたところで、どうせいつも通りの無表情のような気はする。
ただその声音が、少しだけ聞き慣れたものと違うような気がした。
どう違う、と言われてもよくわからない。そんなレッドの声を今まで耳にしたことは、記憶を掘り返す限りなかった気がする。
少なくとも、強さはない。レッドが今みたいなことを口にするのなら、ほぼ確実にまっすぐ前を向いて、強い意志をのぞかせるはずなのに。
今は、表情すら見えないけど。

(あー……もしかしたら)

気のせいでないとしたら。
どこか、頼りなさそうに聞こえた?
そのせいだろうか。
もし3年前に聞いていたとしたら激昂しかねないことを言われたはずなのに、グリーンにも軽く受け止めることができた。

「……おまえに勝ったことなんざ、悔しいが一度もねえよ。ついでに、過去形かよ」

グリーンが口にした言葉に、拗ねた響きはほとんどない。
ライバルに負けたくない気持ちは、グリーンがいちばんよく知っていた。
負け続けたグリーンではなくて、勝ち続けたレッドもそう思っていたことを知れたのは、もしかしたらラッキーだったのかもしれない。
レッドは、勝つのが当然だと思っていたわけではないのだ。
──負けたくないという言葉は、負ける可能性を考えていない人が口にできるものではない。
それに気づいているのか、いないのか。
レッドの顔は、未だにタオルで隠されたままだ。

「今でも、負けたくないけど。でも、もしかしたら負けても大丈夫なのかなって思った」
「はあ?」
「グリーンが、心配してくれたから」
「……は?」
「僕がライバルだって、言ってくれたから。ヒビキに」
「そりゃ……な」

確かに、言った。レッドがどう思っていようと、たとえグリーンがそう思っているだけかもしれなくても、グリーンにとってレッドはライバルだ。
でも。今、レッドが呟いたことをかみ砕いてみると。

(……一応、まだライバルだって認めてもらえてんのか……?)

そうでなかったら、今みたいなセリフは飛び出してこない、気がする。
──なぜいきなりそんなことを言い出したのかは、やっぱりよくわからないのだが。

「……で? だから、下りてきたのか? イマイチよくわからねえんだけど」
「それもあるけど」

むくりと、レッドが身体を起こす。頬に乗っていたタオルが、ジーンズに包まれた足の上へと落ちた。
半端に濡れたタオルだ。水気が生地を伝ってきて気持ち悪いだろうに、レッドはまったく気にした素振りを見せない。
そのまま、まっすぐに見上げている。レッドを見下ろしている、グリーンの瞳を。

「……なんだよ?」

久しぶりに目の当たりにしたその目線の強さに、少しだけグリーンはたじろいだ。
責められているようには見えない。だが、あまりにもまっすぐに見つめられて、少しだけ居心地が悪い。
つい先刻、どこか頼りなげな声でなにやら呟いていたというのに、気がついたらこれだ。
でも──それにどこか安心している自分がいることも、グリーンは気づいていた。
3年前と少しも変わらない、澄んだ瞳。
身長が伸びても、いろいろ成長しても、強くなっても、ずっと会えなくても、レッドのいちばん大切なところは変わっていない。
それが今、言葉を尽くして説明されるよりも雄弁に、伝わってきたからかもしれない。

「グリーン」
「あん?」
「黙っていなくなって、ごめん」

……だから。
その場でものの見事にしばらく固まってしまいそうなことを言われても、グリーンはかろうじて自分を保つことができた。

「……なんだよ、急に」

正直、レッドが謝るなんて一度たりとも思ったことがない。あれだけ力一杯ぶん殴っておきながら、グリーンの頭の中にそんな未来予想図は存在していなかった。

(打ち所、悪かったか?)

一瞬、そんな失礼なことを考える。かろうじて、口にするのは堪えた。
表情に出すことも耐えた、気がする。
幸い、レッドは微妙に遅れたグリーンの反応に興味は示さなかった。

「悪いことにしたなって、思って」
「な……んだよ。自覚、あったのか?」
「最近気づいた」
「……まー、おまえならそうだわな」

最初からわかっていたなど、ありえない。だとすれば、どんなきっかけがあったのやら。

(ヒビキか?)

最近気づいたと言っていたし、その可能性は高いだろう。
あの子どもは一体、この無表情な頑固者にどんなことを言ったのか。
少しどころかかなり気になったが、今は気にしないでおくことにした。

(今度、問いつめりゃいいしな)

グリーンが本気を出せば、ヒビキの口を割らせることはそう難しくない。少なくとも、レッドを相手にするよりは簡単だ。
そんなことを考えて、少しだけ意識が逸れていたところに。

「僕がいなくて、さみしかった?」

またしても突然、レッドが爆弾を落としてくる。
しかも今度は油断していたこともあって、グリーンに直撃だ。効果抜群のうえに急所にヒットで、ダメージ何倍になったかわからない。

「……は!?」

その問いかけに、なんと返せと言うのか。まさか、馬鹿正直に肯定しろと言うのか。
それとも、バレているというのか。
さみしいと思っていたことが。

(これもヒビキか?!)

一応、言葉として告げたことはない。だが、態度や表情に現れていなかったなんて、そんなことは口が裂けても言えなかった。
なるべく、隠そうとはしていた。していたが、隠せていた自信はない。

(やっぱり、問いつめる……!!)

わなわなと全身が震える。またしても、握った拳に力が入った。
とはいえ、今回はこの拳を振り上げるわけにもいかない。あきらかに、グリーン自身の都合だ。
激情のまま行動に出たら、レッドの言葉を認めることになってしまう。
──もちろん、そんなグリーンの葛藤を、レッドが考慮してくれるはずもなく。

「僕は、さみしかった。グリーンに会えなくて」

続けざまに、爆弾が落ちてきた。

「ばっ……かじゃねえの!?」
「うん、ばかだよね。帰ってくればいいだけだったのに」
「ホントにな!!」

もう、本気で何を言えばいいのかわからない。
どうすればいいのかも、正直なところわからない。

(3年ぶりに帰ってきたと思ったら、いきなり何言い出してんだ、こいつ!!)

本気で、頭の打ち所が悪かったのか。なんというかもう、そうとしか思えない。
一瞬、グリーンは心の底からレッドをぶん殴ったことを後悔した。こんなことになるなら、せめて壁にぶち当たらないようにしたというのに。

(ああああ、もう!!)

気づいたら、自分の頭を抱えていた。
実際、頭を抱えたくなる程度には動揺していたと思う。叫び出さなかったのが不思議なくらいだ。
そんなグリーンの挙動をじっと見上げていたレッドの右腕が、そろりと動く。

「ねえ」

その手は前方へと伸びて、グリーンのジャケットをつかんだ。軽く、前に引っ張られる。
バランスを崩しそうになったものの、そこまで強い力ではなかったおかげで一応声はあげずに済んだ。
レッドの瞳は、グリーンの瞳を捕らえたままだ。

「……んだよ、今度は」
「なんで、ヒビキに負けちゃったの」
「……あいつが強いからに決まってんだろ」

さっきより少しだけ近づいたその瞳に浮かぶ色は──なんと言えばいいのだろう。
少しだけ、揺れている。悲しみとも失望とも違う、グリーンが見慣れていない色。
ただ、なぜか。
……悲しい気分には、ならなかった。

「グリーンが負けるのは、僕にだけだって思ってたのに」
「おまえだって負けただろーが。ヒビキに」
「負けたけど」
「俺だって、おまえが負けんのは俺にだけだって思ってたよ」

ヒビキが勝ったと聞いて、嬉しかった。でも、その相手がレッドだったと知ったとき、嬉しさが薄れたわけではなかったけど、グリーンは少しだけ悔しいとも思った。
実際は、一度もレッドに勝ったことなどないくせに。
つい、そんなことを思ったのだ。

(たぶん、こいつが下りてきたのはヒビキに負けたから、なのにな)

だとすればヒビキに感謝こそすれ、そんな悔しさを抱く必要性など、どこにもない。
それでも、そのほんの小さな悔しさを消せないのは。
──やはり、レッドのライバルとしての矜持なのか。

「グリーンは」
「なに」

気がつけば、レッドの左手もグリーンのジャケットをつかんでいた。
またしても引っ張られて、先ほどよりもソファへと近づく。グリーンを見上げるレッドも、レッドを見下ろすグリーンも、かなり上下に首を傾けないと互いの顔が見えない。
こんな不自然な体勢で、レッドは何をしたいのか。
そんな意味もこめて問いかければ、ぱちりとレッドが瞬きをした。

「僕のライバル、だよね?」
「……あったりまえだろ」
「……僕だけのライバル、だよね」
「だから、当たり前だっつの。後にも先にも、俺のライバルはおまえしかいねえよ」
「……うん」

ぎゅっと、腰のあたりに抱きつかれる。すがりつくように背中に回された指に込められた力は、意外なほどに強かった。

(こいつも、不安だったのか?)

よく、わからないけど。
何に対して不安を感じていたのか、グリーンにはまったく察することができなかったけど。
レッドに勝てなかったグリーンが不安を抱えていたように、グリーンに負けたことのないレッドも何か不安を抱えていたのだろうか。

(まあ、おかしかねえよな。俺たち、まだ14歳だぜ?)

不安なんて、ひとつもないほうがたぶんおかしいのだ。
……そんな、気がする。

「よかった」
「レッド?」
「忘れられてなくて、よかった」

グリーンの腰に抱きついたままのレッドの声は、くぐもっていた。
今はもう、いくら下を向いてもレッドの顔は見えない。見えるのは、レッドの頭だけだ。
グリーンとレッドは身長もたいして変わらないから、こんなアングルでレッドを見ることはほとんどない。しかも常に帽子を被っているレッドのつむじなんて、過去数回しか見たことがないかもしれなかった。

(今日は、いろいろめずらしいことだらけだな)

でも、気分は悪くない。むしろ、良い。
挙動不審になりかけるほど動揺したりもしたが、よくよく考えればその原因すらどこか気分をくすぐったくさせる。

(ああ、今日はいい日なんだ)

まあ、それはそうだろう。
こうやって、3年ぶりにレッドに会えた日なのだし。

「……そりゃ、こっちのセリフだっつーの」
「グリーンのこと忘れるなんて、ありえないよ」
「……俺だって、そーだよ」

手を伸ばして、そっとレッドの髪に指を絡める。後頭部にできたコブを避けて、ゆっくりと頭を撫でてみた。
日頃は帽子に隠れているグリーンよりも濃い色をした髪は、さらさらした触り心地をしている。
何年も前の記憶、そのままに。

「グリーン?」
「レッドのこと忘れるなんて、天地がひっくり返ったってありえねえよ」
「…………うん」
「だから……ワケわかんねえこと考えてないで、たまには帰ってこいよな」
「うん」
「おまえを忘れるなんて、無理なんだから……会えなかったら、さみしいだろ」
「うん」

そのせいかもしれない。
ほんの少しだけ、素直になれたのは。




そして、二日後。
仕事の都合でジムに泊まり込んだグリーンと一緒に二日間をそこで過ごしたレッドは、マサラタウンに帰ることなくそのままシロガネ山に引き返していった。ちゃんと日頃滞在している場所の詳細をグリーンに告げ、移動するときは連絡するから、と言い置いて。

(どんな心境の変化だ?)

強くなりたい気持ちはなくなったわけではなく、そしてあの場所は修行の場としては最適だとかで、もうしばらくはあそこにいたいらしい。
それに、一応物資補給のために時折下山もしているようで、今度からはそのついでにトキワジムかマサラタウンのグリーンの家に寄る、とも言っていた。レッドにしては、ものすごい譲歩だ。

「だから」

ジムの最奥、執務室の窓から外を眺めながら、グリーンは思い出す。レッドがシロガネ山へと戻る前、最後に言い交わしたことを。

「また、僕とバトルしてくれる?」
「望むところだっつーの。今度こそ、勝ってやるからな!」
「言っとくけど、僕まだヒビキに勝ち越しだからね?」
「うるせー!」

そう、約束したから。──否、そんな口約束などなくても。
たぶん、何も用がなくてもこの先、シロガネ山に登る回数は増えていくのだろう。
山登りなぞに興味はないが、あの山の上にはグリーンが何よりも興味を惹かれるモノがいる。
10年近く一緒にいて、知らなくていいようなことまで知り尽くしていると思っていた。
だけど、まだまだ興味は尽きない。もっと、知りたい。
だとすれば、行くしかないではないか。

たとえ、雪山登山の途中で後悔することになろうとも。
ライバルの待つ、あの真っ白い頂点の世界へ。


End.