言うなれば後悔先に立たず

5


「へいへい」

けたたましく鳴りだしたポケギアを手にとって、ジムの執務室で仕事をしていたグリーンは、誰からの通話なのか確認すらせずに着信ボタンを押した。
今、抱えているのはちょっとやっかいな案件で、とにかくさっさと片づけてしまいたい。ずるずると長引かせれば、そのぶんよけいな時間をとられることになる。
なので、視線は書類に落としたままだった。相手が誰かなんてことは、声を聞けばわかる。
そんな、あまりほめられた態度ではなかったのだが。

『あ、ヒビキです! グリーンさん、今大丈夫ですか?』
「ヒビキ? おう、どしたよ。今日はダメだけど、明日なら付き合ってやれるぞ」

とりあえず相手が判明したところで、グリーンは気もそぞろな対応を改めることにする。
ヒビキはここ何ヶ月かの間、毎週日曜夜どころか暇さえあれば修行だと言ってグリーンのところに通ってきていた。なにやらどうしても勝ちたい人がいるとかで、詳細は聞いていなかったがその意気込みは相当なものだった。
四天王でも継続リーグチャンピオンのワタルでもなく、最強とは言われてはいてもジムリーダーであるグリーンを相手にバトルを繰り返すことが何の修行になるのかはわからなかったが、強いトレーナーと戦えるのはグリーンにとっても僥倖だ。
若いからなのか、それとも天性のセンスゆえなのか。ヒビキは着実に勝率を上げていっており、グリーンは本気を出してもなかなか勝ちを拾えなくなってはいたものの、べつに自分が弱くなっているわけではないからさほど気にもしていなかった。
だから、いつもの調子で軽く口にしたのだが。

『それなんですけど、じつは今日は報告があって』
「報告?」
『やっと、勝てたんです。勝ちたかった人に』

返ってきたのは、予想していなかった言葉で。
一瞬、グリーンはそのままポケギアを取り落としそうになった。

「え……おっ、マジで!? すげえ、めでたいじゃん!」

次いで、じわわじとわき上がってきたのは嬉しさだ。
グリーンは、ヒビキの努力を知っている。たぶん、いちばん身近で目の当たりにしてきた。
だからこそ、まるで自分のことのように嬉しい。話を聞いただけなのに、やたらと気分が高揚してくる。
どうしても勝てない相手に勝ちたいと思う気持ちを、グリーンは嫌と言うほど知っていた。
それも、あるのかもしれない。

(俺も、ヒビキみたいにすりゃあよかったのかな)

とはいえあの頃のグリーンには、幼馴染みであるレッド以外には、修行に付き合ってくれるような人もいなかったのだけど。

『はいっ、ありがとうございます! グリーンさんのおかげです!』
「や、それはおまえの実力だろ。めでたいけどな!」

ポケギアの向こうからは、弾んだ声が聞こえてくる。その屈託のない様子に、自然と笑みが浮かんだ。

(今度、なんか祝ってやっかな)

たまには、そうやって先輩面してみるのもいいだろう。
どこかでおごってやってもいいし、いっそシルバーも呼んでここで祝ってやってもいい。ヒビキのことはジムトレーナーたちもよく知っているから、一緒に騒いでくれそうだ。
ヒビキの声をポケギア越しに聞きながら、頭の隅でそんなことを考えていた時だ。

『ところで……あの。じつは、ぼくがやっと勝てた人のこと、なんですけど』
「あ」

……すっかり忘れていたことを、ヒビキの口から言われた。
もちろん、最初の頃は気になっていた。なにしろ、ヒビキが勝てない相手だ。
だが、ヒビキとバトルするのがどんどん習慣化して、いつのまにか目的そのものはどうでもよくなっていた。
なぜ、相手をするのがグリーンでなければいけなかったのか。そんな根本的な疑問も、すっかり記憶の彼方になっていたくらいだ。

「そーいや、結局誰だったんだよ?」

なので、深く考えずにそう聞いた。
今まで、ずっと秘密にしていたくらいだ。そう簡単に答えが返ってくるとは思っていない。
だからといって、今さら問いつめる気もなかった。
気が向いたら、教えてくれるかもしれない。そんな、軽い気持ちだったのだ。
それなのに。

『ええっと……あの、ごめんなさい! ほんと、ごめんなさい!!』
「は?」

──なぜか、ものすごい勢いで謝られた。
意味がわからない。何か、ヒビキに謝られるようなことがあっただろうか。
まったく、記憶にない。
詳しいことについての説明がなかったのは、それなりの事情があったからだろう。
昔のグリーンならいざしらず、今のグリーンはそこに目くじらを立てるほどではないのだ。

『一応言い訳させてもらえるなら、口止めされてたんです。ほんとです。それはもう、ものすごい迫力で! なので、言えなかったんです!!』
「や、わかったから。とにかく落ち着けよ」
『あの、許してくれますか……?』
「許すも許さないも……っつーか、なんで口止め? ヒビキ、おまえまさかものすげえヤバいヤツ相手にしてたんじゃないだろうな? 誰か人質でも取られてて、それで言えなかったとか」
『……ある意味、そうかもしれませんけど』
「マジかよ!? おい、そーゆーことは早く言えって! 警察に言わなくたって、いくらでもやりようってモンがあるだろ!?」

なんだか、急に物騒な話になってきた。まったく、穏やかじゃない。
ポケギアを握る手に、つい力が入る。そんな危険なことにヒビキが首を突っ込んでいたのに、片棒を担いでいたかもしれないグリーンがまったくその可能性に気づかなかったなど、間抜けにもほどがある。
大体、いくらトレーナーとして強くても、ヒビキはまだ11歳だ。グリーンだってまだ14歳でしかないが、ジムリーダーという職権がある。少しくらいは、手助けすることができたはずだ。
一瞬のうちのそこまで考えたグリーンの声色は、かなり固いものになっていた。
それに、気づいたのか。ヒビキが、ポケギアの向こうで急に慌てた声を出す。

『えっ、あのっ、そういう意味じゃないですから! ある意味そうかもってだけで、別に犯罪とかじゃないです。ヤバいことでもないです、ほんとです! それにちゃんと解決したんで!』
「……なら、いいけどよ」

とりあえず、ヒビキは嘘を吐いたりしない。そのヒビキがそう言うのなら、警察の世話にならなければいけないようなことではなかったのだろう。

(じゃあ、なんで口止め?)

安堵の息を吐くと同時にふたたび疑問がわき上がってくるが、それを追求する機会は巡ってこなかった。

『それで……黙っていたおわびをしたいんですけど』

急に神妙になったヒビキの声がそんなことを言い出したからだ。

「は? や、べつにそんなの気にしなくても」
『それじゃ、ぼくの気がすまないので! 今すぐ、ジムの外に出てきてもらえませんか。お願いします』
「ジムの外だあ?」
『……ダメですか?』
「…………」

もし、今ヒビキがグリーンの目の前にいたら。耳としっぽをしょんぼりと垂らした、ガーディのように見えていただろう。
そして、実際目の前にいなくても、グリーンはリアルにその光景を頭の中に思い浮かべてしまった。

(くそ、こいつ得なヤツだな)

今さら、心の中でそんなことをぼやいても遅い。
たとえ本当に見えたわけではなくても、その想像にはかなりの効力があった。
なんというか、無視できない。そうしてしまうことに、猛烈な罪悪感がつきまとう。

「わかった、行きゃいいんだろ、行けば。今は、べつに挑戦者もいねえし」

さっさと片づけたい書類仕事が目の前にあったりするが、まあそれは後回しにしても死んだりしない。後々にグリーンがしんどくなるだけで、提出期限そのものはまだ先だ。

(なんで俺、こういうヤツに弱いんだ……?)

グリーン自身が、微妙にひねくれているせいかもしれない。
まっすぐな子どもには、なぜか基本的に甘かった。
──べつに、グリーンも性根までひねくれているつもりはないのだが。

『ありがとうございます!』
「んじゃ、ちょっと待ってろ」
『はいっ!』

嬉しそうなヒビキにそう言い置いて、グリーンは通話を打ちきる。処理しかけの書類はそのまま放置して、とりあえず風で吹き飛んだりしないよう上に重しだけ置いておいた。

「たまに、人がマジメに仕事してる時に限ってこうなるしなー……」

横目で、思いっきり作業途中のデスクを見下ろして。グリーンは、小さくため息を吐く。
世の中、そんなものかもしれない。慣れないことはするなと、そういうことなのか。
ジムリーダーとしての仕事は嫌いじゃないが、書類仕事だけは実際面倒だ。他に誰かがやってくれればいいのに、と真剣に思っている。

「ま、そーゆーワケにもいかねえわな……」

そんなことをぶつぶつとぼやきながら、執務室に備え付けられている裏口を開けた。とりあえず、そこにヒビキの姿はない。
裏口のカギは開けたまま、のんびりとヒビキがいるであろうジムの正面へと回ろうとして──視界に突如飛び込んできたものを見たグリーンの足が、ぴたりと止まる。
意識して、止めたわけじゃない。凍り付いたように、動かなくなった。
衝撃が、大きすぎて。

……信じられないモノが、そこにいた。

記憶にある姿よりは若干育っているものの、見間違えるはずがない。
名前を象徴するような、その姿。トレードマークのような、帽子。
肩の上に乗っているのは、トキワの森にしか生息していない黄色いポケモン。その尻尾が、ゆらゆらと揺れている。
どう見ても、それは。

「……レ……ッ、ド?」
「……ただいま」

3年前に突如姿をくらました、幼馴染みでライバルの──レッド、だ。

(なんで、こいつがここにいる?)

そのまま口に出して聞けばいいのに、驚きすぎて口が思うように動かない。

(っていうか、いつのまに帰ってきたんだ?)

そのせいで、自分の言葉が頭の中でぐるぐると回る。なぜ、レッドがここにいるのか。いつ、帰ってきたのか。ただいまと言っている以上、帰ってきたのは間違いないのだろうけど。

(大体、俺は今、ヒビキに呼び出されて外に出てきたはずで)

でも、ヒビキはいなくて。

(…………まさか)

そこで。
──やっと、繋がった。
何ヶ月か前に、ヒビキにお願いされたこと。今まで、ヒビキと共にやってきていたこと。
そして、先ほどヒビキが言っていたことが。

「……ヒビキがどうしても勝ちたかったヤツって、おまえか?」

極力、感情を抑えて口を開く。
グリーンにとってそれはものすごく難易度の高いことだったのだけれど、それでも必死で実行した。今は、感情を爆発させるべき時ではない。
一応、それくらいの分別はつくようになったのだ。
この、3年の間に。

「たぶん、そうじゃないかな」
「じゃあ、あいつに口止めしたってのもおまえか」
「うん、そう」
「俺にも言うな、と」
「むしろ、グリーンには絶対ダメって言ったかな」
「そうか」

しかも、予想通りの答えが返ってくる。
ひくりと、こめかみが震えた。
……だが、もう我慢する必要もなさそうだ。

「なら、遠慮することはねえな」

そう言って。グリーンは、抑えていた感情のリミッターを外した。
自然と浮かんだのは、怒りのあまりにひきつった凄絶な笑みだ。それを隠す努力は放棄して、グリーンは右手の拳を握る。
ぎり、と。爪が手のひらに食い込むほど、強く。

「遠慮?」
「……とりあえず」

それは、レッドが帰ってきたら絶対にやってやると思っていたことだ。
避けられてもいい、とにかくやらないと気が済まない。
だから、利き足にゆっくりと体重を乗せて、少しだけ腰を落とす。
グリーンが何をしようとしているかを、理解しているのかいないのか。
少しだけ首を傾げたレッドの表情は、まったく変わらない。相変わらずの、無表情だ。
──反論する気も言い訳をする気もないのだと、グリーンは勝手に解釈した。

(上等だ)

返事を待たずに、地面を蹴る。そのまま、一気に距離を詰めて。

「一発、殴らせろ……!」

ばきぃっと、派手な音と共に。
十分に体重を乗せたグリーンの右ストレートが、みごとレッドの顔面に炸裂した。



「ぴぃかぁ……」
「……要領いいな、ピカチュウ……」
「ぴか!」

いつのまにかグリーンの頭の上でなぜか誇らしげに胸を張っているのは、殴られた衝撃でジムの壁に叩きつけられた主を見捨てて安全地帯へと避難していたレッドのピカチュウだ。

「いたい……」

後頭部を思いっきり壁に激突させるハメになったレッドが、眉をしかめたまま頭に手をやっている。たぶん、大きなコブができているだろう。
ついでに、手加減なしに拳で殴られた顔のほうも、なかなかだった。これでも急所は一応避けたので主に頬のあたりが大惨事になっている。
切れた唇には、少しだけ血がにじんでいた。

「ああ、忘れてた」

そんなレッドの姿を腰に手を当てたまま見下ろしていたグリーンが、思い出したように呟く。
グリーンにも、わかっていた。避けようと思えば、おそらくレッドはグリーンの一撃を避けられたことに。
でも、あえて避けなかった。たぶん、そういうことなのだと思う。
ピカチュウだけが逃げたのは、ピカチュウに咎はないから。
なんとなく、それを理解したので。
グリーンは今度こそ口の端を上げて、笑みを作る。
3年も行方不明になっていた幼馴染み兼ライバルの帰還を喜ぶ素直な笑顔にはならなかったけど、さすがにそこまで譲歩してやる気にはならなかった。
でも、嬉しいのは確かだったから。
──久しぶりに、その顔を見ることができて。

「おかえり」

今さらのように。
3年ぶりに聞いたレッドの言葉に対する返事を、してやることにした。