先手必勝
「うわっ!?」
どすん、という音と共に勢いよく背中から伝わってきた衝撃と痛みに、瞬間息が詰まった。
とっさに閉じていたらしい目をおそるおそる開くと、視界の隅に見慣れた天井が映る。うん、間違いなくここはオレの部屋。べつに、夢を見てるワケじゃないらしい。
で、なんで天井が視界の隅にしか入っていないかというと、だ。
「あのー……レッドさん?」
「なに? グリーン」
「や、なにってそれ、オレのセリフ」
オレを無表情に見下ろす幼馴染みの顔が、視界の大半を占拠しているからだ。
「つか、なんなわけ。背中、すっげえ痛いんですけど」
「だろうね。すごい音した」
「なら、すんじゃねえよ!」
大体、なんでこんなことになってるのかがさっぱりわからない。さっきまでオレたちは、マサラタウンのオレの部屋で、のんびりしてたはずだ。
オレから強奪したチャンピオンの座を放り出して、幼馴染みにしてライバルのレッドがさっさと勝手気ままな旅に出たのはかれこれ3年くらい前だったと思う。それっきり家にはとんと帰ってこなくて、どこかでのたれ死んでるんじゃないかと不安で気が気じゃなくなってきた頃に、突然こいつはトキワジムにやってきた。ちなみに、オレは2年くらい前からトキワジムのジムリーダーをやっている。
で、オレの説教なんかどこ吹く風で全部聞き流したレッドは、しばらくの間シロガネ山のてっぺんにいるからとかなんとか言い置いて、またさっさとどこかに行っちまったわけだ。何考えてんのかさっぱりわからん。
シロガネ山ってのはカントーとジョウトのジムバッジを16個集めないと入れない危険な場所で、まあオレは一応ジムリーダーなんてもんをやってる以上、そこに入る資格は持っていた。
ついでに、頂上までは行ったことなかったが、途中までは登ったこともあった。あの山は野生のポケモンのレベルが相当高いんで、手持ちを鍛えようと思ったら確かに都合がいい。
だけど、だ。
まさか、あんな山に住み着いてるヤツがいるなんて、普通の人間が思うもんか。
しかも、そんなことしでかすアホが自分の幼馴染みだなんて、誰が想像する? するわけがない。
あいにく、あの山に足を踏み入れたことがあるオレは、あの山のとんでもなく厳しい環境を、身をもって知っていた。しかも、レッドのバカがいつも通りの半袖ジャケットなんていう冗談みたいな格好でそこへ向かったところも目の当たりにしてしまった。
まさか、そのまま行くわけない。オレだって一瞬はそう思った。
でも、あいつの性格を考えると、あのまま行かない理由をなにひとつとして思いつけなかったんだ。
仕方ないから出来る限りのスピードで防寒具その他非常食なんかをまとめて、シロガネ山に行ったらしいレッドを追いかけた。追いついたのは山の頂上で、案の定あいつは見てるほうが寒くなるような半袖姿を貫いていたから、抱えてきた荷物を全部まとめて投げつけてやった記憶がある。
それが、確か1年半くらい前だった。それ以来、たまにオレはレッドが必要そうな物資を持って山を登り、レッドはレッドで気まぐれを起こして時たまふらっと山を下りてくる。自分の家には寄りつかないくせに、トキワジムのオレがときどき寝泊まりしている部屋やオレの家には気づくと上がり込んでいるあたり、本気で意味がわからない。おばさん心配してっぞ、おい。
──いやまあ、それはいい。とにかく、そんな経緯で、レッドがここにいること自体はめずらしいが、べつ驚くことでもない。
大体、こいつが山を下りてくるのは大歓迎なんだ。しかも、自分の家にも帰らないのにオレには顔を見せにきてくれるって、それだけでなんというか気分が浮上する。つーか、たぶんわかりやすくオレは浮かれてる。
そんなんで幸せにひたれる安い男と言われても、この際ひとつも言い訳はしない。わかんねえってヤツにはわかってもらわなくても結構だ。そんなささいなことで幸せになれるくらい、レッドのことが好きなんだから仕方がない。
……そう、好きなんだ。幼馴染みでライバルで、しかも同性で同い年の男なんだが、好きなものは好きなんだからどうしようもない。
ジムリーダーなんて職にはついていてもオレはまだ世間一般的に見ればたかだが14歳のガキで、ポケモンに関する知識や戦術理論なんかはともかくそれ以外に関することは脳みその中身も年齢相応にガキなわけで、性別が同じっていう分厚くて高すぎる壁を粉砕する方法なんてなにひとつ思いつきはしなかった。ただ、やっぱりガキなので、そのままあきらめることもできなかった。
大体、年季が長すぎたんだ。この感情にやっと名前をつけることができたのは行方をくらましてたレッドが一度帰ってきたときだったが、似たような気持ちはずっとオレの中でくすぶっていた。それこそ、いつからかなんて覚えてない。
10歳のとき、じいさんからポケモンをもらって旅を出るときにはすでに抱えてきたような気がする。今、当時の自分の言動を振り返れば、穴を掘って埋まりたいような黒歴史ばっかりだ。なんというか、好きな子をいじめたい悪ガキのテンプレみたいなことをしてた。
アホだよな、オレ。そんなんで伝わるわけねえだろ? 案の定、レッドにはそのアホな言動に埋もれたオレの本音なんざ、ひとっつも伝わってはいなかった。
つーか、逆に伝わったらヤバイ。せっかく幼馴染みでライバルっていうレッドにいちばん近い場所をキープしてるのに、それすらなくなっちまう。
いくらオレでも、さすがにこの気持ちがレッドに受け入れてもらえるなんて、ムシのいいことは考えてない。むしろ、逆だ。知られたら最後、たぶんレッドは二度とオレのところに戻ってこない。それだけは絶対に勘弁だ。
だから、とにかく隠し通そうとしていた。表に出していいのは、幼馴染みとしての好意まで。ライバルだから、ポケモンバトルに関しては少しくらい独占欲がこぼれても許される。
そんなこんなでレッドと再会してから1年半、オレはけっこう上手くやってきたつもりだった。ジムリーダーとして身につけざるをえなかった大人の処世術のはしくれみたいなヤツも、少しは役に立ったのかもしれない。
本音と本能と思春期ならではの欲求を抑えつけるのはけっこうきついモンだが、レッドを完全に失ってしまうよりはマシだ。心の底からそう思っていたから、少なくともレッドが側にいるときは完璧に本音を隠せていたはずだった。
……の、はずなんだが。
なんで今、オレはレッドに押し倒されているんだ?
床に叩きつけられた背中が、じんじんと痛む。掴まれた二の腕が痛い。
間違っても理性が切れることのないように注意していたから、いきなり突き飛ばされたり拒絶されたりするような行動には出ていなかったはずだ。
と、いうことは。
「ったく……なんなわけ。プロレスでもしたくなったか?」
情けないが、それくらいしか思いつかない。
それにしても、いくら意識して理性を総動員しているとはいえ、レッドの顔がここまで近くにあるとさすがに鉄壁の防御も崩れそうになる。正直、マズイ。
大体、このオレが理性総動員とか、そもそも無茶してるにも程があるんだ。自分で言うなって? 自分だから言えるんだよ、これ他人に言われたらキレるだろ普通。図星すぎて。
とはいえ、ここでオレの腕をがっしりと掴んだまま覆い被さるようにしているレッドを無理矢理どかすのも、かなり至難の業だった。
……なんでって、見下ろしてくるその目が、表情が、あきらかに不機嫌なものだったからだ。
よくわからないが、これは怒っている。
たぶん、機嫌を損ねている。
…………何に?
「そろそろ、我慢の限界になった」
「はぁ?」
やっぱり、意味がわからない。
っていうか、オレのほうが我慢の限界だ。臨界点だ。どうすりゃいいんだ、これ。
幸いというかなんというか、シロガネ山でサバイバル生活を送っているレッドの力は大層強くて、しかもマウントポジションを取られてしまったオレは身動きできない。おかげで、理性が崖っぷちの瀬戸際から今にも落ちそうになっていても、後々後悔しなきゃいけないようなことはできそうもなかった。それには、情けないが一安心だ。
つーか、そもそもここで安心してるのもどうなんだ?
でも、仕方ない。オレはそりゃあ自分でも呆れるくらいレッドが好きだが、レッドを傷つけるのも嫌だし、それ以上にまた離れていかれるのも嫌なんだ。情けなくて悪かったな、どうせヘタレだよ。そばにいる以上を望むわけにはいかねえんだから、それくらい大目に見ろよ。
「って、ちょ、なに!?」
必死で作ったポーカーフェイスの下で、そんなことをぐるぐる考えていた──というよりは自分自身に言い聞かせていたら、いつのまにかレッドの顔が近づいてきていた。
いや、これはマジでヤバイ。あわてて顔をそむけようとしたら、耳元で囁かれる。
「ちょっと黙って」
「…………」
それは、ものすごく冷たい声だった。ぎくりと全身が震えて、声が出ない。
さらさらした黒髪が、頬をくすぐる。レッドが、オレの肩口に顔を埋めていた。
なんか、すっかり腹の上に乗られてるんだが、オレは本気でどうすればいいんだ。
つーか、レッドが怖いなんて生まれて初めて思ったかもしれない。こいつの考えてることなんてわかったためしがないが、行動を見れば何をしたいのかくらいは大体わかっていたのに。
今は、本気で何をしたいのかすらわからない。
そのまま固まってしまったオレの耳に、ふたたびレッドの声が滑り込んでくる。
小さな、囁くような声だ。
「ぼくがシロガネ山にこもった理由、知ってる?」
「し……知らねえよ。おまえ、なんも言わなかったじゃねえか」
「失恋したから」
「しっ……失恋!?」
──本気で、心臓が破れるんじゃないかと思うくらい、驚いた。
こいつが失恋。というか、そもそも恋愛感情を抱かないと失恋なんてモノはできない。
つまり、こいつは誰かを好きになったことがあるのか。いわゆる、そういう意味で。
レッドの頭を占めているのはポケモンのことだけだと思ってたんだが、違ったのか。
いや、そうじゃなくて、それよりもなによりも。
……その、うらやましいヤツは一体誰だ。
「だっ……誰に」
わざわざ聞いて自らトドメを刺されに行くのも癪だが、レッドは失恋したと言った。
失恋したからレッドがシロガネ山に籠もったのなら、そのレッドの片思いの相手がレッドをフらなければ、オレがあんなにもしんどい思いをする必要もなかったってわけで。
確かに、そうなったらオレがもう希望もなにもなく失恋決定なわけだが、どうせ元から実る可能性ゼロパーセントなんだから、それくらいなら恋愛成就して近くにいてくれたほうがマシだった。
ああ、でもその相手が誰なのか聞き出したところで、女の子相手じゃ殴ることもできやしない。どこにそのフラストレーションを持っていけばいいんだ?
そんなことを考えていたせいか、口にした問いかけは微妙に震えていた。まあ、どっちにしろマゾいとしか言いようがない。ホントにな。
でも、聞いちまったものは仕方がない。そのまま覚悟を決めて、レッドが口を開くのを待っていたわけだが。
「グリーンに?」
「……はあっ!?」