天空海闊


「理不尽だ」
「あ?」

トキワジムで事務仕事中のグリーンをとっつかまえてそう言ったら、グリーンは「意味わかんねえ」とでも言いたげな顔でぱちりとまばたきをした。
グリーンは大きな事務机の前に座っていて、ぼくはその反対側に立っている。相変わらずグリーンの目はちょっとつり上がっていて、でもぼくを否定する色はその瞳のどこにも見えなかった。

「だから、理不尽だ」
「や、だからなにが。つーか、どっちかってーと理不尽なのはおまえじゃね? なあ、レッドさーん?」
「知ってる」

そんなの、グリーンに指摘されるまでもない。
見上げてくるグリーンの視線からふいと顔を背けて、ぼくは部屋の中央にあるソファへと身体を沈めた。トキワジムの執務室に備え付けられているソファはけっこう座り心地がよくて昼寝に最適なことは、ぼくも身をもって知っている。
べつに昼寝をしにきたわけじゃないけど、いざグリーン本人を目の前にしてみたらなにを言えばいいのかわからなくなってしまったぼくが、他にできることなんてない。
ほんとに、理不尽だ。グリーンの存在自体が理不尽だ。
さんざん甘やかされておいて、そんなことを思うぼく自身がいちばん理不尽だ。
ふてくされたままソファの背に頭を預けたら、ふいに視界がかげる。

「おーい、レッド?」

いつのまにか立ち上がって背後から顔をのぞき込んできたグリーンが、ぺたりとぼくの額に手を当てていた。
冷たくもなく熱くもない、心地よい人肌。
それよりも、なによりも。

「うーん?」
「…………っ」

思わず、息を詰める。なに考えてんの、顔近すぎ。
至近距離でぼくの顔を見下ろしているグリーンの表情は、眉が少しだけ下がってはいるけどいつもどおりだ。チャンピオンの座を賭けて戦う前、ポケモンをもらって旅に出る前、互いの間に境界線なんかなかった時から、ずっと変わらない視線。
──やっぱり、間に壁ができたように感じていたのは、ぼくだけなんだろうか。
幼馴染みでライバルで、そんな相手に大きな声では言えないような感情を抱いてしまったから、なんだろうか。

「熱は……ねえな」
「ちょっと」
「いやでも、ずっとシロガネ山にいたわけだしなあ。低体温になってるなら、この熱さでも十分微熱か?」
「べつに熱、ないから」

おまえはぼくの母さんか。そう言いかけて、なんとかこらえる。
よくよく考えたら、そんなの今さらだった。もう、だいぶ前から、グリーンはぼくに対してこんな態度だ。

「そーか? レッドの言動に脈絡がないなんていつものことだけどさ、今日はなんかいつも以上にかっとんでるからさ……知恵熱でも出したかと」

ぺちぺちとぼくの額を叩いて、グリーンの顔が離れていく。少しだけホッとしつつ、かなりの勢いでそれを残念に思っているぼくがいた。
それに知恵熱、か。ある意味、当たっているかもしれない。
熱が出ているわけではないけど、頭の中は相当煮詰まっている。それもこれも、全部グリーンのせいだ。
……半分以上八つ当たりなのは、よくわかっていた。

「…………かもね」
「ややこしいこと考えるから、そーなるんだよ。ストレートにいっとけ。それじゃなくても斜め上にかっとんでくんだから、スタート地点からひねり入れる必要ねえだろ。基本、おまえって単純なんだし」
「…………」

ソファの背を飛び越えてぼくの隣に座ったグリーンの横顔を、じっと見る。
こいつはたぶん、ぼくがなにを悩んでいるのかなんて、欠片もわかっていないに違いない。だから、こんなあっさりとなんでもないことのように言うんだ。

「ストレートにいっていいわけ」
「レッドに遠回しになんか言われても、気持ち悪いだけだっつの。つーか、そんな話術どこにもねえだろ。日常会話にも不自由してるくせにさ。ほれ、言ってみ。相談くらい、乗ってやるぜ?」

視線をぼくのほうに向けて、グリーンは楽しそうにそんなことを言っている。
というか、ぼくはグリーンに相談しにきたわけじゃなくて、文句を言いにきたんだけど。
……いや、でも、たしかにグリーンの言うとおり、ぼくはややこしいことを考えるのには向いてない。きれいさっぱり、少しも向いてない。
なら、もうさっさとぼくを悩ませている張本人に、この問題を押しつけてしまったほうがいいんじゃないだろうか。
押しつけてみた結果、グリーンに気持ち悪がられたらさすがにへこむかもしれないけど、もうそれ以前の段階でぐちゃぐちゃ悩むのがいい加減面倒になってきた。
だから、ぼくはめんどくさがりなんだ。それなのに3年もひとりで悩んでたことそのものが、間違っていたのかもしれない。

「……じゃあ、言うけど」
「おー」

それに、よくわからないけどグリーンはなんでも許してくれる。
言えば、呆れられるだろう。でも、嫌われることはないんじゃないか。そんな、期待と打算もある。
ぼくにグリーンを独占させてくれることは、さすがにないと思う。でも、勝手にグリーンのことを好きでいる分には許してくれそうだ。もしかしたら許してくれる範囲は狭まるかもしれないけど、そのほうがたぶんぼくのためにもなる。
あとは結局、ぼくの問題だ。

「ぼく、グリーンのこと好きみたいなんだけど」
「は?」

グリーンに言われたとおり、遠回しに言おうとしてもたぶんムダに終わるから、そのままストレートに主張してみた。
ソファの背に頭を預けて伸びをしようとしていたらしいグリーンの口から、間の抜けた声がこぼれて落ちる。手を挙げたままぱちぱちとせわしなくまばたきを繰り返す薄茶色の瞳には、今まであまり見たことのない色が浮かんでいた。
とりあえず、それが嫌悪でないことを祈っておこう。

「どうしよう?」
「どうしようって」

半ばヤケになって首を傾げてみたら、ぱたりと腕を下ろしたグリーンがおうむがえしに呟いた。
まあ、いきなりそんなこと聞かれても困るだろう。でも、ぼくはそれ以上に困ってる。
だからグリーンがなんとかしてと視線に言葉を込めてみたら、目の前で首を傾げられた。その瞳に、動揺とかそういうものは見られない。
いつのまにか、グリーンは衝撃から立ち直っていたようだ。ぼくはまだ困ったままなのに、なんだかずるい。

「オレもおまえのこと、好きだけど?」

──しかも、あっさりとそんなことを言ってくれた。

「……それ、たぶん意味が違うから」
「いや、そんな違わないんじゃねえ?」

そんなに違わないわけがない。もしかしてぼくは言い方を間違えたんだろうか。
でも、他になんて言えばいいのかなんて、わからなかった。もっと、本能に忠実に言うべきだったんだろうか。
グリーンを独占したいとか。抱きしめたいとか。キスしたいとか、触りたいとか。
……いくらなんでも、引かれる気がする。

「で、それがどうした……って、ああ、どうしようってここに繋がんのか? つーか、おまえ、なにかしたいことあんの?」

そんなぼくの本音に気づいているわけでもないだろうに、グリーンはあっさりそんなことを口にして、手を伸ばしてきた。
それも、ぼくの頬に向かって。
もちろん、それを避けることなんてできなかった。できるわけがない。
触りたいだけじゃなくて、触ってほしいとも思ってたんだから、そんなの無理だ。
でも、理性はそんなのありえないって、頭の中でガンガン警鐘を鳴らしている。そのせいで、せっかくグリーンの指がぼくの頬に触れてるのに、その感触すらよくわからない。きっと、気持ちがいいはずなのに。
──少しだけ、心の中が表情に出にくいことに感謝した。こんなことに感謝するのって、たぶん生まれてはじめてだ。

「……ちょっと、グリーン。意味、わかってる?」

とりあえず、だ。
今、ぼくはこの状況を正しく理解しないといけないんだと思う。
本能が告げるとおりに、ぼくに都合よく解釈していいのか。それとも、理性が言うように、単にグリーンが誤解してるだけだって思うべきなのか。
都合よく考えたいのは山々だけど、期待して後でひっくり返されるくらいなら、最初から現実を突き付けられておいたほうがマシだと思う。
だから死刑宣告を待つ囚人みたいな気分で、問いただした。
なのに、グリーンは嬉しそうに目を細めて笑ったのだ。

「わかってるっつの。だから、言ったじゃねえか。意味、そんなに違わないって」

もう片方の手が伸びてきて、ぼくの首へと回った。そのまま引き寄せられて前屈みになったぼくの顔のすぐそばに、グリーンの顔がある。
さっき、額で熱を計られたときよりよっぽど近い。吐く息が互いに溶け合いそうなくらい、ごく近く。
思わず息を呑んだら、近づいてきたグリーンの唇が目元に触れた。
そのまま頬へと移っていったと思ったら、ちゅっと音を立てて離れる。でも、その距離はほとんど空いていない。

「こんなこと平気でできる程度には、好きなんだけど?」

耳の中で声を落とすようにささやかれて、ぞくりと背筋に震えが走った。
衝動的に、目の前にある身体へと両腕を回す。力いっぱい抱きしめたら、耳元で小さく笑われた。
なんなわけ、この差。
本能のほうを信じていいってことはよくわかったけど、でもなんか釈然としない。
どうにもこうにも、理不尽だ。
好きだって言い出したのはぼくなのに、なんでぼくのほうがこんなふうに慌てないといけないの。

「……手慣れてるのがむかつく」
「そりゃな。オレは、大事な思春期を山ごもりなんぞでムダにしたおまえとは違うんだよ。これでも、それなりに人望も人気もあるカントー最強のジムリーダー様なの。オッケイ?」
「…………」

バイビーを卒業したと思ったら、今度はそれか。
まあ、それはいい。どんなキザなことを口走ってようが、それが妙に似合ってようが、冷静に考えたら黒歴史以外のなにものでもないようなことを今でも平気で実行してようが、それがグリーンだ。端から見ればそんな残念な要素も、ぼくから見れば愛しいだけだ。
いっそ、そんな残念要素が多いほうが、ぼくは安心できるかもしれない。グリーンを独り占めできる確率が増えるわけだから。
でも、今グリーンが口走ったことは、とてもじゃないけど安心してられるような内容ではなかった。むしろ、崖から突き落とされたような気さえする。

「引く手あまた、相手には不自由してないってわけ?」
「まあな」

グリーンがモテることなんて、言われなくても知っていた。
知っていたけど、改めてそう言われると面白くない。こう、いろいろな意味で。
こっちは初恋だっていうのに、グリーンはそうでもなさそうなところがなおさら面白くない。しかも、女の子相手に経験なんていくらでも積んでるんですよとでも言いたげで、腹立たしいのを通り越して逆に冷えてきた。心が。

「…………よけいむかつく」

やっぱり、『そんなに違わない』だけあって、少しは違うんだろう。
ぼくが好きなほどには、グリーンはぼくのことを好きじゃない。だから、こんなことを言い出したんだと思う。
でも、今さら手放すつもりなんてない。グリーンがぼくを受け入れるようなことを冗談でもなんでも口にした以上、言質は取れている。
たとえ、相手がトキワの人気者であろうと遠慮しないと、宣言しようとしたら。

「まあ、最後まで聞けって。でもな、レッド」

優しく、頭を撫でられた。
いつのまにか帽子は奪い去られていて、床に落ちていた。グリーンの指が、ゆっくりとぼくの髪を梳いていく。
ぼくがグリーンの身体を抱きしめてしまっているから、顔は見えない。でも、聞こえてきた声と、頭を撫でる指の動きが告げていた。
今、グリーンはぼくが何度も見てきた、ぼくのなにもかもを『許す』目をしている、と。

「相手に困ってなくても、どんだけカワイイ女の子に言い寄られても、それでもオレはおまえのほうがいいんだ」
「グリーン……?」
「だから、堕としてみろよ。おまえと、同じとこまで」

煽るような響きを乗せた言葉が、耳元でささやかれた。
耳たぶに歯を立てられて、小さな痛みが走る。傷ができたわけではないだろうけど、そこをゆっくりと舐められて全身が熱くなった。
ほんとに、手慣れている。本気で悔しい。
グリーンに振り回されていることが悔しいんじゃなくて、グリーンが手慣れていることが悔しい。
だって、それはぼく以外の誰かを相手にして、その経験を積んできたということだから。
──ぼくは、今までグリーンにそんなこと、されたことないし。
でも、前のことなんて気にしてる場合じゃない。
今、グリーンは他の女の子よりも、ぼくのほうがいいって言った。
それを、この場だけの言葉にさせるつもりなんて、ぼくにはない。

「……前言撤回、なしだよ」
「もちろん」
「手加減もしないからね」
「恋愛経験値ゼロのレッドに、んなもん期待してねえよ。それに、そんなんどうだっていいんだ」
「なんで」
「そんなの、決まってんだろ」

グリーンが、楽しそうに笑った。
優しくぼくの髪を梳いて、こめかみに唇を寄せる。

「おまえが相手なら、どんな手口にだってあっさり引っかかってやるからさ」

その声色は、寸前まで笑っていたなんて思えないくらい、真剣で。
ぼくはそれまでただひらすらにぎゅうぎゅうと抱きしめていたグリーンの身体を、そっと離す。
それ、最初から堕とす必要ないんじゃないの、とは言わなかった。
だって、口の上手くないぼくにとって、グリーンの言葉はこれ以上ない免罪符だったから。

「……じゃあ」

自由になった腕を動かして、左右からグリーンの頬を挟み込んだ。
至近距離で、見つめ合う。互いに少しだけ首を傾げて、徐々に距離が縮まっていく。

「これから一生、ぼくのものになって」

唇に触れる直前に、そう呟けば。

「ばーか。最初っから、おまえのもんだよ」

悪戯っぽく笑った目が伏せられたから、ぼくも目を閉じて唇を重ねる。
生まれて初めて触れたグリーンの唇は少しだけかさついていて、ちょっとだけ震えていて、やわらかくて。

なによりも、あったかかった。


End.


天空海闊:大空にさえぎるものがなく、海が広々と果てしなく大きいこと。転じて、度量が大きく包容力に富むこと。