はじまりの色

6

「こんにちはーっ、グリーンさんいますかー?」
「おー、いるよ」

今日も元気にトキワジムの執務室に飛び込んだら、いつも通りの返事があった。
ヒビキの挨拶に応えを返した声の主は、デスクから顔を上げようともしていない。その手にはペンが握られ、視線はデスク上の紙束に向けられている。眉間には、微妙にシワが寄っていた。
今日も今日とて、カントー最強のジムリーダー様は事務仕事に追われているようだ。ジムの表、バトルフィールドにいたジムトレーナーたちが言っていたそのままの状況に、ヒビキは小さな笑みを浮かべた。

「で、ちょっと聞きたいんですけど、ここにレッドさんが……」
「呼んだ?」
「あ、やっぱりいた。ぼくの勘、大当たり」

名前を口にした途端、奥の扉から顔を出したレッドの姿を見て、ヒビキは満足げにうなずく。
最近、レッドはちょくちょくシロガネ山から下りてくる。前もたまに下りてきてはいたが、いつからか急に回数が増えた。なお、大体はグリーンに説教されながらトキワジムにいる。

ヒビキは相変わらずレッドとバトルをするためだけにシロガネ山へと通っているが、最近は必ず山登りをする前に、トキワジムへ寄っていくことにしていた。いざシロガネ山に登って、頂上についてみたらレッドが不在でした、というオチになるとあまりにも空しいからだ。
――それにしても、なぜ急に下山頻度が増えたのだろう?

「……なんか、レッドがさんがここにいること、増えましたよね」
「そう?」

なんとなく思い立って尋ねてみたが、案の定レッドには首を傾げられただけだった。グリーンに至っては書類に夢中、おそらくは聞いてもいない。

「どう見たってそうですよ」
「ふうん……バトルする? ヒビキ」
「あ、お願いします!」

しかも、あっさりと話は別の方向へ流れた。とはいえ、ヒビキもべつにそこにこだわっているわけではないので、気にしない。基本的に、ヒビキはレッドとバトルが出来ればそれでいいのだ。シロガネ山よりもトキワジムのほうが訪れやすい以上、まったく問題はなかった。
しかも、ここはトキワジム。運がよければ、仕事に飽きたグリーンも相手をしてくれるかもしれない。一石二鳥とは、このことだ。

「じゃあ、いっきますよー!」
「うん」

そしてヒビキもレッドも、かなりのバトルジャンキーだった。互いにバトルすることで合意に至れば、場所など関係ない。
目をきらきらとさせながら、ヒビキはモンスターボールを構える。それを見たレッドも、腰のホルダーからモンスターボールをひとつ取り外した。
よし、ではバトル開始――という雰囲気があたりに満ち――

「おい待て、ここでやんな。表行け、バトルフィールド行け! 部屋が崩壊するわ!」

その場を選ばなすぎた物騒な空気は、いつのまにか状況を把握していたらしいグリーンの一喝で見事に霧散した。
言われてみれば当然のツッコミだったが、言われるまでまったくヒビキの頭にはなかった。おそらくは、レッドも同じだろう。レッドの表情はかなり読みにくいが、今はわかりやすく「そういえば」とでも言いたげな顔をしている。
それに引き換え、グリーンはあからさまに不機嫌そうだ。眉間のシワが、先刻より明らかに増えている。
もちろん、その原因がなんなのか、ヒビキは自覚している。やばいと、一瞬背筋に冷たいものが走ったほどだ。

「はっ、はいっ!」
「……わかった」
「さっさと行け、ったく……」

だから文句も言わず、言い訳もしなかった。レッドの背を押して、そのまま執務室を出て行こうとする。
レッドもそれには異を唱えず、おとなしく足を動かしかけて――だが次の瞬間、ぴたりと足を止めた。急に止まられたせいで、あやうくヒビキはレッドの背中に激突しそうになる。

「ねえ」
「ぶっ、ちょ、レッドさん、急に止まんないでくださいってば」
「あ、ごめん。それより、ねえ、グリーン」
「んだよ?」

書類へと視線を戻しかけていたグリーンが、レッドに名指しで呼ばれて顔を上げる。レッドは、そんなグリーンの眉間のシワを、なぜかじっと眺めていた。

「来ないの?」

かと思えば、そんな解釈に困るセリフを吐いている。

「は?」
「見に来てくれないの?」

しかも、続いている。なぜかヒビキの脳裏に、なんとも形容しがたいモノが走った。
いわゆる嫌な予感、というやつだ。

「…………」
「グリーン?」

グリーンの眉間のシワは、ますます深くなる。頬もぴくぴくと痙攣している。
ヒビキの嫌な予感が、ますます方向性を明確にしていった。これはたぶん、レッドのまったく空気を読まないおねだりにグリーンがキレて、レッドとヒビキを問答無用で執務室から叩き出す、という方向にはいかない。

「……っ、かーっ!! わかったよ、行きゃいいんだろ、行きゃあ!」
「うん」

――やはり、そっち方面に行くのだ。

(なにこれ、ノロケ?)

いたたまれない。本気でいたたまれない。
前からグリーンはレッドに甘いというか弱い部分があったが、最近はそれが顕著だ。
逆ギレ気味にレッドのおねだりを聞くハメになったグリーンの表情は凶悪だが、レッドのほうは己の目を疑いたくなるほどに上機嫌だった。本当に、見ているほうが恥ずかしくなる。

「……シルバー連れてくればよかったかな……」

ひとりよりはふたりのほうがマシだったかもしれない。そんなことを思って、つい口にしてしまった呟きだったのだが。

「あー、そしたらダブルバトルできたな」
「そーですね……って、え、あの?」
「ん?」

ヒビキの独り言を聞きつけてコロッと表情を変えたグリーンに話をそこから展開されて、ついうなずきかけたヒビキは、次の瞬間頭が真っ白になった。

(だ、だぶるばとる……って)

どうしよう。考えたくない。

「そ……その場合、チーム分けはどんな感じに……?」
「……アミダでいいんじゃね?」
「でっ、ですよねっ!」

首を傾げたグリーンの適当な返答に、勢いよく同意を返す。適当だというのは嫌というほどわかっていたが、それ以外の可能性を提示されるよりははるかにマシだった。
だが、運命の神さまは悪戯好きで、そう簡単には平坦かつ穏便な道を行かせてはくれない。

「……ヒビキとシルバーが組んで、僕とグリーンが組むんじゃダメなの?」
「いっ……!?」

レッドがしっかり、いちばんありえないパターンを提示してくれたからだ。

「あー、それいいな」

しかもグリーンはあっさりと、そのありえない組み合わせに同意を示している。おそらく、深く考えていないに違いない。

(賭けてもいいよね!)

だが、そんな賭けに勝っても嬉しくもなんともないのだ。

「ちょ、全然よくないですよ! それ、勝てるわけないじゃないですか!」
「や、そうとは限らないじゃね? ヒビキおまえ、俺にもレッドにも勝ってるじゃん」
「なに言ってんですか! 10年以上も一緒にいてツーカーな人たちに、たかだが1年くらいしか付き合いのないぼくたちが勝てるわけないでしょーが!!」
「あー、大丈夫。そのへんは大丈夫」
「なにが大丈夫なんですかっ」

ひらひらと、グリーンが手を振る。大丈夫だから落ち着けと言いたいようだが、落ち着けるわけがない。
そもそも、どこが大丈夫だというのだ。どこにも大丈夫な要素がない。
そう続けようとして――ふと、口をつぐむ。

「だって、なあ?」
「……なに?」

グリーンが、意味ありげにレッドへと視線を投げたからだ。レッドには心当たりがないらしく、目深に被った帽子に隠れがちな目を、ぱちりと瞬かせている。

「俺とレッドに、意思の疎通なんてはなっからねえしな」
「……ああ、うん、そうかも?」
「だろ?」
「うん」

しかも、聞こえてきたのはそんな寝言だ。

(どこがだよ)

もう、これはなにを言っても仕方がない。そもそも、レッドもグリーンも、このうえなく我が道をいっている人たちだ。
主張してみたところで受け入れられるはずもなく、だとすれば心の中でひとりごちるしかない。

(めちゃくちゃ、気が合ってるじゃないか)



――この日、ヒビキは本気で後悔した。
シルバーを、強引にでも引きずってこなかったことを。