寝顔
どうして?
なんて、言われても。
そんなの、理屈でするものじゃないんだからしょうがない。
頭で考えて、それで恋に落ちることができるのなら、どれだけ楽か。大体、自分の意思で選べるのであれば、最初からそんなものを背負い込みたいとも思わない。
「どうしてくれんの」
「…………」
とはいえ、八つ当たり気味に呟いてみても、当の本人はのんきな寝顔をさらしているだけで。
しかも幸せな夢でも見ているのか、締まりなくふにゃりと笑み崩れている。
「……はあぁ……」
そんな緊張感のない顔を見下ろしていたら、ますますため息は深くなった。
眺めていたら腹が立つ反面、心がほんの少しあたたかくなって、さらにちくりと痛むような気すらしてくるから、よけいにタチが悪い。
「健二さん」
小さな声で、呼んでみる。答えはない。
陽の当たらない納戸の薄暗さが心地良いのか、昼間だというのに熟睡しているようだ。ついさっきまでは文机に頬杖をついて英語の課題をやっていたはずだけど、気がついたら開きっぱなしの教科書に突っ伏して寝息を立てていた。
これが数学の問題集であったなら、うたた寝なんてありえないだろうに。
数学の天才で、でもそれ以外はからっきしで、おおむね情けないし気が弱いし流されやすいのに、いざというときは誰よりも頼りになる人。
亡くなった栄おばあちゃんは、最初からこの人のそんなところを見抜いていたのかもしれない。
結局、彼はこの陣内の家を助けてくれた。一度は、誰もが、自分ですらあきらめようとしたときに、一歩も引かない姿勢を見せることによって。
そして二度目は、ギリギリの土壇場で奇跡を起こすことによって。
「……健二さん」
「……むー……」
そっと手を伸ばして、頬をつついてみる。むにゃむにゃと意味の通じない言葉を発しはしたものの、やはり健二が起きる様子はない。
顔は普通、身長は……決して、高いわけではない。そもそも、外見なんてどうだってよかった。背の高さで圧倒的に負けているのは少々悔しいものの、もう少し時間が経てばそこはなんとかなるだろう。おおよそ、母より高くなれば越せるはずだ。
なぜ、よりによってこの人なのか。
それは誰よりも自分がいちばん不思議に思ったから、ここ数日で幾度となく自問自答を繰り返した。でも、結局答えなんか出ないまま今に至る。
この世に生を受けて、十三年目。
まるで制御不能になった小惑星探査機『あらわし』のように、人の都合などおかまいなしで降ってきた池沢佳主馬の初恋は、どんなにひいき目に見ても障害だらけだった。
「健二さん、起きて」
「……うー……ん……」
軽く揺すってみるが、やはり反応は芳しくない。
「起きてってば。起きないと……」
……どうすると言うのだろう?
本当は、もっといろいろなことを話したい。佳主馬は、健二のことを何も知らないから。
だって、知り合ってからまだ一週間も経っていないのだ。最初の数日に起こった出来事があまりに濃厚すぎて、微妙に時間の感覚が麻痺しているのだけど。
声が、聞きたい。もっと、笑顔が見たい。
……でも、なんとなくこの寝顔を見られなくなるのも惜しい気がした。
「……ま、いいか」
よくよく考えれば、これもチャンスだ。ごそごそと動いて座っていた場所を変えると、佳主馬は文机に突っ伏して寝入っている健二の丸まった背中に、自身の背中を乗せる。
体重をかけても、たいして重くもないのかうなり声すらあがらない。そのまま伸びると、古ぼけた納戸の天井が目に入った。
背中に、健二の体温を感じる。
──今は、これで我慢しておこう。
本当は、全然足りないけれど。
健二は佳主馬のことを、弟のように思っている。佳主馬にとってはまったくうれしくない種類の好意ではあったが、とりあえず嫌われても疎まれてもいないのだ。
それどころか、一人っ子だった健二は兄弟という存在に憧れすらある。だから健二の中で佳主馬が占める割合は、決して小さくはない。
それは時によって、彼が憧れ、恋心を抱いているはずの夏希よりも、佳主馬を優先してくれるほどに。
「使えるものは使うよ。最初から、こっちが不利なんだし」
性別も年齢も、健二が持っている気持ちの大きさも共に過ごした時間も、さらに住んでいる場所や距離ですら。
なにひとつ、佳主馬が有利なものなどない。
強いてあげるのなら──健二も夏希も、かなりの奥手だということか。
進展は、限りなく遅そうだ。つけ込むなら、そこしかない。
分の悪すぎる勝負だけど、負ける気はなかった。
戦って勝つのが、好きなのだ。まずは、距離を縮めるところから。
──こうして、背中が触れ合っているだけでも、少しは幸せになれるから。
「……おやすみ、健二さん」
だから、そう小さく呟いて。
佳主馬も、そのまま目を閉じた。
これでも一応、ケンカズなんだって主張してみる。
……片思い状態なら、どっちでも同じだよね!