狂ったワールドクロックが時を刻む。
すべてを失ったと、打ちのめされた瞬間だった。
大切な人たちを、守れなかった。負けたことが悔しくて、格好悪く泣いて──そして、聞こえた声。言葉。
その時から、世界が変わった。これ以上なんてないところまで追いつめられていたはずなのに、あの言葉を聞いてから、あの家の時間はもう一度動き出した。
今度はバラバラになることなく、手を取り合って。勝ち目なんてほとんどなかったけど、それでもひとつになって。
あの時は、気づかなかった。それどころではなかった、とも言う。
だけど、今ならわかる。
カウントが始まったときに、おそらくは臨界点を突破していた。それまでは、ちょっと尊敬してもいいかもしれないところもある、どちらかというと情けないけど人の良いお兄さん、だったはずなのに。
そして、忘れもしない。忘れられるわけもない。
あのカウントがゼロになるほんの少し前に、この持って行き場のない不毛な感情を佳主馬自身が自覚した、ということを。
ワールドクロック
01
「……うえっ!?」
もぞもぞとタオルケットの塊が動いたと思ったら、そんな奇声を発して飛び上がった。
タオルケットの中から顔を出したのは、鼻にティッシュペーパーを詰めたままの名目上客人だ。すでにこの陣内家では家族親戚のくくりに入れられていて客人扱いはされていないが、一応血は繋がっていない。
「あ、あれ、僕、なんで?」
あたふたと辺りを見回し、かと思ったらふすまに寄りかかって一部始終を眺めていた佳主馬へと、健二はすがるような視線を向ける。その間違っても格好いいとも頼りがいがあるとも言えない姿に、佳主馬は小さくため息をついた。
「鼻血ふいて倒れたでしょ。夏希姉ちゃんに……」
「わあああああっ!!」
キスされて。
口にしかけた言葉は、真っ赤になった健二の悲鳴にかき消された。
……弱い。弱すぎる。
頬にキスされたくらいで、あれか。しかも、この反応か。
今時、小学生でももう少し進んでいると、佳主馬は心の中で呟いた。
──それに、あくまでも『頬』だったことに、心のどこかで安堵したのも事実だ。
頬でこの有様なら、いくら夏希がその気になったところで、しばらくは先に進むまい。
「……ま、正しい判断だったかもね」
そんな後ろ向きなんだか前向きなんだかわからない思考を無理矢理脇によけて、佳主馬はもう一度ため息をついた。今度は、やや大きめにわざとらしく。
「え……な、なにが?」
照れなのかなんなのか、タオルケットをぐしゃぐしゃにしてなにやらブツブツ呟いていた健二が、首を傾げつつ四つんばいのまま近づいてくる。片膝を立てて座り込んでいた佳主馬は、その体勢を崩さないまま目だけで健二の動きを追った。
目をまん丸くして、落ち着きなく瞬かせているその姿は、まるで小動物のようだ。あと十分足らずで頭上に『あらわし』が墜落してくることが判明した時に、あんなにも落ち着いていた人とは思えない。
……だからといって、特にがっかりした気分にもならなかった。
逆に、ほっとする。ああ、今ここで流れている時間は日常のものなのだ、と。
──佳主馬にとってその日常はもう、上田へ来る前とはまったく違ってしまったけど。
近づいてくる健二の姿に、一瞬鼓動が乱れるくらいには。
「起きてすぐ夏希姉ちゃんの顔見たら、また鼻血ふきかねないし」
「うぐっ」
こんな、なんでもないことで自分だけ動揺するなんて、なんだか悔しい。
そのせいか、ほんの少しだけ口元をゆるめて呟いた言葉は、予想以上に健二へと衝撃を与えたようだった。そのまま、不自然に健二の動きが止まる。
「……しっかりしなよ」
たしかに動揺させることには成功したが、それはそれで面白くなかった。
まあ、それも当たり前だ。どこの世界に、好きな人が他の人とキスして浮かれているのを喜ぶ奴がいるというのか。たとえ、それが頬への軽いものだったとしても。
「あ……あはは……」
またしてもため息をつくと、やっと健二がぎしぎしと音でもしそうな鈍さで動き出す。
それでもとりあえず衝撃は去ったのか、そのままその場に座り込んだ。そして、もう一度辺りを見回すと。
「……って、あれ?」
またしても首を傾げて、今度はじっと佳主馬の目を見つめてきた。
「……なに」
話すときは、相手の目を見て話しなさい。今は亡き曾祖母にそんなことを言われたことを、佳主馬は今さらのように思い出す。
たしかに、それに異はないが。
つい昨日、恋心を自覚したばかりの相手にそれをやられると、さすがにまだ大人になりきれない十三歳としては少々荷が重い。
嫌なわけじゃない。それどころか、嬉しい。
ただ、それをあからさまに表へと出せないことが辛いだけだ。
十三歳の中学生男子が、懐いている十七歳の高校生男子に向けても怪しまれない態度。それを計算して表に出すのは、OMCの決勝戦よりもよほど難しい。
だから、大げさに目を逸らさないように、鼓動が乱れたことをさとられないように、そして全身が熱を持ったことを気づかれないように。
意識して、いつも通りの声を出した。幸い、健二は佳主馬の努力にはまったく気づかないでいてくれたけど。
「もしかして、佳主馬くんがずっとついててくれたの? 僕に」
「……そう、だけど」
そのかわりに、あまり突っ込んでほしくないところをストレートにえぐってきた。
ぶっ倒れた健二についていると最初に言いだしたのは、もちろん夏希だ。ただ、今日は栄の誕生日であり、そして葬儀の日。女性陣は、なにかと細々とした仕事が多い。
それでもついているとごねた夏希を、自分がかわりに健二を見ているからと追い払ったのは佳主馬だ。元々人が大勢いるところは好きじゃないし、仕事をしながら見てるから。そう言えば、家族も親戚もまず異は唱えない。
気が付いた途端に夏希の顔を見たら、また健二が鼻血をふくかもしれない。それも、夏希を含め皆を納得させるいい理由となった。単なる口から出任せだったのだが、こうやって目覚めた健二の反応を見るに、あながち冗談でくくるわけにもいかなさそうだ、が。
もちろん、それらはすべて単なる言い訳にすぎなかったから、今でも少し良心が咎めている。ただし、それは健二に対してのみ、だ。
そんな佳主馬の本音を、健二が知るはずもなく。
目の前の人は、頭をかきながらへにゃっと嬉しそうに笑った。
「そっかあ。ごめんね、つき合わせちゃって。ありがとう、佳主馬くん」
「……べつに。ついでだし」
ほんの、少しだけ。気づかれない程度に、佳主馬は健二から視線を逸らす。
本当は、ついでなんかじゃない。その証拠に、一応すぐ傍らに置いてはあるものの、ノートパソコンは閉じたままだ。電源すら入っていない。
ただなにをするでもなく、ずっと健二の寝顔を見ていた。OZにログインすれば、おそらくはいくらでもやることはあっただろうに、ただ、ずっと。
不思議と、退屈さは感じなかった。
健二は倒れているのだからと、ちびっ子たちが襲撃してくることもない。誰にも邪魔されず、ただ静かに穏やかに流れていた時間が、OZの中でキング・カズマを戦わせて勝利を目指している時よりも充実しているように思えたのは、何故だろうか。
……そんなの、今さら自分に問うまでもなかったのだけど。
たとえどんな言い訳を並べ立てる必要があったとしても、この笑顔が間近で見られる場所を逃すつもりはない。
だから、佳主馬はすぐに笑っている健二へと視線を戻す。
ほんの少しだけ、誰にもわからない程度に口の端をゆるめて。
──それはまるで、勝負を楽しんでいるようにも見えた。
「それより、健二さん。水飲む?」
「あ、うん……って、今何時?」
「もうすぐ六時」
「あ、ろく……って、ええっ!? 僕、どんだけ倒れてたの!?」
「少しは鍛えたら?」
「……鼻の血管の鍛え方なんて、知らないよ……」
「練習すれば」
「どっ、どどどどうやって!?」
「知らない」
まだ明るい、夏の夕方。
八月一日、午後六時になるまであと三分。
たぶん最初はすぐ隣に座ってたんだけど、あんまりにも長い時間健二が起きないんで、衝動で手とか足とかに触りたくなって、じりじりと後退してってふすまと友達になった、とかだと思う。
あれおかしいな、佳主馬をヘタレにするつもりはなかったんだけどな……。
続くかもしれません。