闇に包まれた納戸の中で、ノートパソコンのディスプレイだけがぼんやりと光を放っている。

 耳に聞こえるのは、己がキーボードを叩く音のみだ。納戸に備え付けられている高くて小さい窓の向こうでは、かすかに風も吹いているのだろうけれど。
 今、ただひとりパソコンに向かっている人物の耳には、そのようなささやかな音など入ってはこない。それほどに、集中していた。

 べつに、OMCの試合をやっているわけではない。あの騒動で失ったチャンピオンベルトは、最後の最後にOMCバトルエリア以外でラブマシーンを粉砕したことによって、宙に浮いている。そのチャンピオンベルトを賭けた試合が行われるのは、まだ先の話だろう。それほどに、OZはまだ混乱している。
 でも、だからこそ。
 今、OZが混乱している最中だからこそ、佳主馬には真っ先にやるべきことがあった。たとえチャンピオンベルトを失っても、キング・カズマを操る者として。
 ──この家において、彼ほどにOZへの影響力と発言権を持つ人間はいないのだから。

 ただひたすらに、キーを叩く音があたりに響く。
 佳主馬は、慣れている。人の注目を浴びること、そしてそれによって賞賛の言葉を向けられることも、逆に心ない誹謗や中傷を受けることも。
 だが、佳主馬が大切にしている人々はそうじゃない。それなのに、陣内家の皆のアバターは、あの戦いであまりにも前面に出すぎてしまった。花札でラブマシーンに勝負を挑んだナツキに至っては、世界中の注目を浴びてしまっている。
 日頃、あまりOZを使わない人たちはまだいいだろう。メールくらいしか使わないのなら、そのアバターが不特定多数の目に触れることはない。理不尽な注目を浴びることも、ない。

 でも、そうじゃない場合は?
 ……たとえば、OZの保守点検をバイトにしている、健二のような人の場合は?

 特に、放っておけば健二の立場は微妙になりかねない。佳主馬から見れば「すごい」の一言で済ませることができてしまう事柄も、OZの管理側から見ればフェイルセーフ用の暗号をあっさりと、しかも何度も解いてしまう危険人物というレッテルを貼るのに十分な要素を含んでいる。
 それは、困るのだ。でも、今なら。
 まだOZが混乱の最中にあり、そして陣内家の人々や健二が『救世主』と扱われているうちであれば。

 だから佳主馬は今、こうやって面倒なことに自ら首を突っ込んでいる。
 誰かのために、じゃない。突き詰めれば、それは自分のため。佳主馬自身が、健二との繋がりを断たれないため。

「……こんなもんか」

 OZ運営管理の責任者から望んでいた言葉を引き出して、佳主馬はやっと詰めていた息を吐き出した。
 キーボードの上で軽快な音を響かせていた指を止め、両手を降ろす。板張りの床へと手をついて軽く後ろへと体重をかければ、固まりかけていた背中の筋肉が伸びていくのがわかった。

 元々、会話なんてものは得意じゃない。それなのに、たとえ文字だけのやりとりとはいえ、リアルタイムでそんなことをする気になったのか。むしろ、なぜそんなことができたのか。
 己の必死の願いを叶えようとするとき、人は自分でも信じられないような力を発揮する。
 佳主馬は昨日、それを目の当たりにした。
 ──だからかも、しれない。



 静寂が満ちる、宵闇の中。
 八月二日になるまで、あと十分。


ワールドクロック


02

「あれ? 佳主馬くん、まだ起きてたんだ」
「……っ」

 突然耳に飛び込んできたその声に、一瞬飛び上がりそうなほど驚いたのは秘密だ。
 悲鳴を上げかけた口をあわてて片手でふさぎ、佳主馬は文机の前に座ったままゆっくりと後ろを振り返る。視界に入ったのは案の定、ほの暗い廊下から納戸の中をのぞき込んでいる健二の姿だった。

 声なんて、聞き間違えるはずがない。
 頭の中で何度も何度も、繰り返し聴いていたものだから。

「……健二さんこそ」

 すぐにでも側に駆け寄りたい衝動を抑えるのには、けっこうな精神力が必要だった。
 そのかわり、口にした声音に若干の喜色が混じってしまったのだが、幸い健二は気づかなかったようだ。佳主馬に無視されなかったことそのものが嬉しいのか、にこにこと笑顔で笑っている。

「僕はトイレ」
「迷わず行けた?」
「さ、さすがにね」

 少しだけからかいをこめてそんな言葉を口に乗せれば、健二の笑みが少しだけ困ったような色を帯びた。でも、それは決して嫌がっているわけでも、本当に困っているわけでもないのがわかる。
 そういえば、たしか最初に交わした会話はそんな内容だった。
 あの時は、まさかこんな事態に陥るなんてまったく思ってはいなかったけれど。

「そういえば佳主馬くんって、最初に会ったときもここでメール打ってたよね」

 ──そして、健二も同じときのことを思い出していたらしい。よく考えればまだほんの数日前のことなのに、どこか懐かしそうにそう口にする。

 そう、まだほんの数日。本来、健二は四日間の約束でこの家へとやってきたのだ。
 あまりに多くのことが立て続けにありすぎて、すでにその約束がどうなっているのか佳主馬は知らなかったけれど、ひとつ確実なことがある。
 健二はいつか、東京に帰ってしまうということだ。

 佳主馬だって、ずっとここにいるわけじゃない。新学期が始まる前には名古屋へ帰らなければならない。
 それだけなら、まだいい。でも、東京には夏希がいる。帰るときだって、おそらく健二と夏希は一緒だろう。
 それなのに、佳主馬は未だに健二の連絡先すら知らない。こんなにも、彼との繋がりを求めているのに。
 繋がりを手に入れるなんて、簡単だ。健二に直接、聞けばいい。
 なのに、佳主馬にはどうしてもそれができなかった。先刻は得意じゃないとわかっていても、健二よりよほど食えない大人を相手取って対等に渡り合うことができたのに。
 そういう意味では、今のほうがよほど必死なのに。どうして、「教えて」の一言が口に出せないのか。

「……そういえば、そうだっけ」

 メールという単語のせいで、佳主馬はそんな自分の葛藤を思い出してしまった。
 言うなら、今な気がする。でも、急にそんなことを言ったら不審がられないだろうか。十三歳の中学生男子が、懐いている十七歳の高校生男子に向けても怪しまれない態度、その範疇に入るだろうか。
 本当にただの歳の離れた友人だと思っていたのなら、いっそ気軽に聞けたのかもしれない。なまじ下心があるだけに、言い出しにくいのか。

 というか、なぜそんなことで悩まなければいけないのか。
 そんな自分自身に、佳主馬が若干不機嫌になりかけたときだ。

「あ、そうだ。佳主馬くん、帰る前にアドレス教えてくれないかな」
「え」
「そしたら、OZでもいろいろ話せるし。……佳主馬くんがよかったら、だけど」

 健二が、佳主馬の焦がれて止まないその声で軽く、そんなことを言った。
 逸らしかけていた視線を、ゆっくりと健二へと戻す。
 ……年上のその人は、少しだけ照れた顔で佳主馬を見下ろしていた。

「……いいけど、健二さんのは?」

 意識なんて、していない。

「え?」
「健二さんのは教えてくれないの」

 完全に、無自覚だ。でも、気がついたら佳主馬はそう口にしていた。
 健二を見上げる視線に力がこもる。当の健二はそれに気づいているのかいないのか、またしても嬉しそうに笑った。

「あ、ええっとね……あれ。携帯、部屋に置いてきちゃったな。書くものある?」
「それじゃ、ここにでもメモしといて」
「あ、そうだね」

 起動しっぱなしだったパソコンの指差すと、健二は少しだけ目を丸くして、それから納得したように笑う。健二が近づいてくるのを目の端で確認してから、佳主馬はテキストエディタの白紙ページを立ち上げた。

「……なんか、負けた気分」

 ぽつりとこぼれたのは、本当に単なる独り言だ。

「え?」

 それを聞きつけたのか、佳主馬の横からキーボードへと指を乗せようとしていた健二が首を傾げる。目を瞬かせるその姿をちらりと見上げて、佳主馬は小さく首を左右に振った。

「なんでもない」

 これが、四年という歳の差なのだろうか。

 健二が佳主馬のアドレスを聞いてきたのは、どう考えても会話の流れで思いついたから。佳主馬はそのずっと前から健二にそれを聞きたくて仕方がなかったのに、ずっと口に出せなかったというのに。
 意識したほうが負け。好きになったほうが負け。
 前に、なにかの本で読んだフレーズが頭に浮かぶ。
 そういうことなのかもしれない。

「……携帯の番号も教えて。電話」
「え? あ、うん」

 それでも、どさくさにまぎれてちゃっかり電話番号も要求した自分を、佳主馬は心の中で少しだけ褒めた。



 ──そして、日付変更線を越えて。

 八月二日午前一時、佳主馬は健二の携帯に自分のアドレスと携帯番号を登録するという口実の元に、健二の部屋へ転がり込み。
 そのまま、健二と一緒の布団に潜り込むことに成功した。




前振り長いよ。
こんな長々書いておいて、じつはやりたかったのはアドレス交換だけというこの事実。