3

 なにを言われたのか、とっさには理解できなかった。

「先手必勝ってこと、だよね」

 一体、なにが。なにに対して。
 そもそも、この状況がなにを示しているのかがまったくわからない。

(こ……怖いっていうのもまた違うけど、でもなんかこう、凄絶なんですけど!?)

 それは、上から見下ろしてくる佳主馬の笑み。
 若干十三歳、去年までランドセルを背負っていたはずの中学生にこんな表情ができるなんて、知らない。健二が十三歳だったのはたった四年前の話だけども、絶対にこんな顔はできなかった。
 する、必要すらなかった。

「か……かず、ま……くん?」
「なに」

 なんとか口を開いて、言葉を継ぐ。口の中がなぜかカラカラになっていて、うまく舌が動かない。

「あ、あの、えっと……その」
「用がないなら、黙って」

 明確な意図を持って、佳主馬の指が唇に触れた。年齢相応の、もしかしたらそれよりも華奢な細い人差し指と中指が、乾いた唇をそっとなぞっていく。

(だ、黙ってって言われても)

 おとなしく、それに従っていていいのだろうか。
 否、よくない。いいわけがない。
 理由なんて少しもわかりはしないけれど、でもこのなにが起こっているのかまったく理解できない状況がに甘んじていいなんてことはありえない。

「よっ、用ならある! あるから!」
「だから、なに」

 あわてふためいて叫ぼうとする唇をなだめようとしているのか、それともおさえつけようとしているのか。佳主馬の親指が、唇の隙間に入り込んでくる。

(いや、だから、おかしいから)

 佳主馬の指の動きも。少しずつ近づいてくる顔も。
 健二は今、床に完全に頭をつけて横たわっていた。正確には、今腹の上へと馬乗りになっている少年に、そういう状態にさせられたわけだが。

「あ、あの、かずまくん」
「悪いけど」

 左手一本で軽々と身体を支えながら、佳主馬はじつに綺麗な笑みを見せる。

「前言撤回は、しないから」

 正体のわからない震えのようなものが背筋を走り抜けていったのは、おそらく気のせいではないだろう。



崖っぷちの愛




 まったくもって状況を理解していないことは、百も承知だった。
 理解していないからこそ、混乱はしていてもこうやっておとなしくしていてくれる。それくらいは、佳主馬にもわかっていた。

(ほんと、バカだ)

 心の中で、そう吐き捨てる。べつに自棄になったというわけでもないけれど、冷静かつ客観的に捉えれば自暴自棄にしか見えないような行動を、今から起こそうとしている自分自身に向かって。
 少し前、とっさに導き出されたのは、ものすごく短絡的な結論だ。どう考えても戦略としてはお粗末だというのに、いざ触れてみれば嫌でも全身に熱が回った。
 他でもない、自身の鼓動がうるさい。
 まるで壊れてしまいそうなほどに、大きく脈打っている。まだ、指で頬と唇に触れただけなのに。

「ぜっ、前言撤回って、それって」
「だから、先手必勝」

 ためらいなく口からこぼれた言葉だけは、嘘みたいに落ち着いて聞こえた。
 落ち着いているはずなんか、ない。もしかしたら、今こうやって馬乗りになっている相手よりも、よほど混乱しているのかもしれない。
 当たり前だ。ただ指で、まるで壊れ物に対するように触れるだけで満足することなんて、今さらできるはずがない。
 佳主馬が上体を傾げば、互いの吐息が聞こえるほど間近へと、互いの顔が近づく。
 目を見開きながらも、せわしなく健二はまばたきを繰り返していた。

「健二さんみたいな人は」

 身体を支えていた左手と、自分のものではない唇の輪郭をなぞっていた右手を静かに動かして、健二の頬をそっと包み込む。
 健二がまばたきをするたびに、わずかな筋肉の動きが手のひらへと伝わってきた。そんな、あまりにも些細な刺激にすら、佳主馬の身体は──否、どちらかといえば心が反応する。

 どくん、と鼓動が高鳴って。
 じわり、と心がしびれて。
 誰にも、渡したくなくなる。

 その瞳に他の人間なんて映して欲しくないと、心の狭いことまで思ってしまう。

「どうせ、口で言ってもダメなんだ」

 単に、佳主馬がちゃんと心を伝える術を知らないだけかもしれないけど。
 それを口にしたところできっと、今の佳主馬に健二を独占することなどできやしない。そんな権利もなければ、それが叶うための要素すらなかった。

「ねえ」

 目を丸くする健二と、至近距離で見つめ合う。
 好きだと言えば、佳主馬のやることは大抵大目に見てくれるようになった。どう考えても行きすぎな行動もした覚えがあるけど、年下のかわいい弟とでも思っているのか、たしなめられたことも怒られたことも、一度もない。

(僕の気持ちに応えたくなるなんて、そんなことを言うなら)

 それが、与えられた他人からの好意に流されただけなのだとしても。
 冷静に考えれば、そんなことであっさりと流されてしまう健二の性質に頭を抱えたほうがいいのかもしれいけど、それですら利用したくなる。
 なにしろ、嫌なことをするわけじゃない。
 ただ、今まではそれを行動に移すのはさすがにどうなのかと、なけなしの自制心を騒動心して我慢していただけなのだから。

「目、閉じてよ」
「えっ!?」

 健二の鼻の頭に、歯を立てることだってできそうだ。それほどに、近い。
 ここまでされても、佳主馬がなにをしようとしているのか理解していない健二は、はたして救いようのないほどに鈍いだけなのか。それとも、あえてその答えから目を逸らしたいだけなのか。

(どっちでもいいか)

 どうせ、佳主馬の心は変わらないのだから。

「だから。目、閉じて」
「だ、だって……っ!?」

 それ以上はもう、言わせなかった。
 健二が発しようとした言葉ごと、先ほどまで触れていた唇を塞ぐ。ただ、自身の唇で軽く触れただけだったけど、見事なほどに健二の動きは止まってくれた。
 キスの仕方なんて、佳主馬だってよく知らない。それまで、そんなもの必要なかったから。
 健二に出会って、いつしかこんな苦しい気持ちを常に抱えるようになって。その正体に気づいたときに、衝動であれこれと無意味に調べはした。本来、佳主馬が抱えることになったこの感情や衝動は自然の摂理に反したもので、どうやって解消すればいいのか見当もつかなかったからだ。
 そんな、付け焼き刃の知識ではあったけど。

(健二さん)

 触れた唇は表面こそかさついていたけど、おそるおそる舌で舐めて湿り気を与えれば、いつしかしっとりと濡れて。
 ついばんでいるだけで、触れ合ったところから溶けていくような気さえしてくる。
 視界が閉ざされているからかもしれない。佳主馬の感覚のすべてが、健二と触れ合っているところへと集中している。
 唇と唇、手のひらと頬、そしてすっかり下敷きにしている健二の身体。
 ──そこで、ふと気づいた。
 唇を自分のそれで塞いだままそっと目を開けると、そこには案の定な光景が見える。

「……目、閉じてって言ったのに」
「な、ななななな?」

 ほんのわずかだけ距離を空けたものの、しゃべろうと口を動かすだけでやはり唇が触れ合えそうなほど間近でそう呟けば、健二は目を白黒させてまったく言葉になってない言葉を発した。
 わけのわけらないことを口走っているわりには佳主馬を押しのけようともしないし、この場から逃げようともしていない。ひょろひょろで頼りないとはいえ、その二本の腕は存在すら忘れられているのか、所在なげに納戸の床へと投げ出されている。

「キスするときは目を閉じるもんだって、どっかに書いてあったよ」
「……ってええええ、ちょ、まっ」

 床とお友だちになっていた健二の腕が、やっと役目を思い出したのかわたわたと謎の動きを見せた。
 それでも、やはり我が物顔で腹の上を占拠する人間約一名を、排除しようとする気配はない。意味もなくただ動かすことで、動揺を逃がそうとでもしているのだろうか。

(……だと、いいけど)

 せめて、そっちのほうがいい。
 キスまでしているのにわかってもらえなかったなど、笑い話にもならない。まさかそんなことありえない、と言い切れないあたりがなんとも言い難いものの。

「なっ、なんで!? なんでキス!?」

 ──なにしろ、今さらこんなことを聞き返してくる人だから。

「好きな人にキスしたいって思っちゃ、いけないの」
「そ、そういうことじゃなくてっ。っていうか、それは僕にもわかるけど! で、でも、なんで、今?」
「他に誰もいないから」
「え、って、あわわわわ」

 また、健二の目がまん丸くなった。見開かれたまぶたに触れるだけのキスを落とすと、うろたえたような情けない声が聞こえる。でもやはり、その場から動くことはしない。
 健二が頭を動かせないのは、佳主馬が両手で頬を包み込んでいるからだ。力なんて、じつはたいして入っていない。全身の力をこめれば頬に触れている手どころか、きっと馬乗りになっている佳主馬すらはね除けることができる。
 頬から右手だけを離して、まだ意味不明な動きを続けている健二の左手をつかんだ。指を絡めてみると、佳主馬のそれよりも少しだけしっかりしている指と大きな手のひらは、じっとりと汗ばんでいる。
 完全にインドア理系草食系男子高校生である健二の手なんて、細くて筋肉もついていなくて頼りないだけだと、ずっと思っていた。

(でも)

 今、その頼りないはずの手に触れて指と指を絡めただけで、こんなにも満ち足りた気分になるのはどうしてだろう。そしてそれと同じくらいに、心のどこかが焦燥と飢餓を訴える。

(足りない)
 これだけじゃ、全然足りない。

「何度も言うけど、僕は健二さんが好き」
「わ……わかってるよ、知ってる」
 絡め合わせた手を口元まで引き寄せて、健二の指に唇を寄せた。
「ひゃ、ひゃあああ?」

 キーを打つときの邪魔にならないように短く切られた爪の生え際に舌を這わせると、力のまったく入っていない情けない悲鳴が上がる。

「なに」
「な、なななななにしてるの、佳主馬くん」

 舌の動きは止めないままにそう口にすれば、動揺もあらわな健二の声がそれに応えた。

「健二さんの指、舐めてる」

 おそらくは困惑しきっているだろうその表情は見ないまま、佳主馬はそう続ける。
 爪から指の関節へ、そして指のつけ根へ。じんわりと汗をかいた健二の指を舌で味わえば、ほんの少しだけ塩気を感じた。

(たぶん、勝ってるよね)

 心の中で、佳主馬はそんなことを思う。
 健二と夏希の仲は、夏希から贈った頬へのキスで止まっているはずだ。それを考えれば、確実に。
 なのに、焦りが募る。
 それは、健二が佳主馬の勢いに流されただけだと、他でもない佳主馬自身が身に染みているからだ。

「お、美味しくないと思います」
「そう?」
「そう……って、あの、佳主馬くん?」

 声に促されて視線を健二と合わせれば、おそるおそるとしか表現しようのない上目遣いとぶつかった。
 ──とりあえず。
 事態を把握しているのかしていないのかわからない健二にその気になってもらうには、どうすればいいのだろう。

「何度も言ってるじゃん。先手必勝だって」
「だ、だからなにに。なにを。どれを。というか佳主馬くん、なにと戦ってるの」
「夏希姉ぇ」
「へっ!? なっ、ななななんでそこで夏希先輩が出てくるの?」
「……正確には違うかな。健二さんと」
「僕ぅ!?」

 すっとんきょうな声を上げる健二の「頼むから、僕にも理解できる言葉でちゃんと説明してください」と懇願する視線は無視して、佳主馬は右手で健二の指をとらえたまま、左手を健二のシャツの裾から中に潜り込ませた。
 指に当たるのは、金属の感触。スラックスに通されたベルトだということは見なくてもわかったが、それを外さなければダメなのかと思うと面倒くさい。

「ちっ。なんでベルトなんてしてんの」

 気がつけば、舌打ちがもれていた。
 佳主馬に睨みつけられた健二は、一瞬ヘビに睨まれたカエルのような顔をしていたものの。

「いや、だってしとかないと落ち……じゃなくて!」

 すぐに、我に返ったようだ。

「か、かかかかか佳主馬くん、なななななにして」

 空いていた右手を床につき、せっぱ詰まった様子で上半身を起こそうとする。それでも、佳主馬につかまえられた左手は振りほどこうとはしないままだった。
 ただ、佳主馬の顔が健二とかなり接近していたということは。

「ぷは」
「ご、ごめんっ」

 佳主馬は、健二の腹に乗っていた。そして馬乗りになられている人間が上半身を起こそうすると、かなりの前傾姿勢になっていた佳主馬の頭が健二の胸のあたりに激突することになる。
 結果的に健二の胸に顔を埋めることになってしまった佳主馬だったが。

(……まあ、これはこれで悪くないけど)

 でも、これだと少々やりにくい。
 この先が。

「なんなの、急に起きあがって」
「いやそもそも僕、べつに寝っ転がってたかったわけじゃなくてだね……というか佳主馬くんに押し倒されたような気がだね」
「それがどうかした?」

 上体を起こされてしまって目的は達成しにくくなったけど、佳主馬は諦めてなんかいなかった。
 ただ、目的を達成しようとすると、健二の腹の上に乗っている自分自身が邪魔になる。ベルトを外すにも、それをクリアしたあとも、結局はこの場をどかない限り先には進めない。
 だが、今ここをどいてしまったら、健二に逃げられてしまう気がする。

「ど、どうかしたって、それこっちのセリフだから。な、なんで?」

 頭の上から降ってくるのは、戸惑いでいっぱいになった健二の声だ。
 そこに、嫌悪の色はない。怒りもない。
 だから。

「……既成事実」

 健二の胸に頭を押しつけたまま、佳主馬はぽつりと本音を呟く。

「きっ……!?」
「作ったほうが、早そうだから」

 表情はまったく見えなかったが、健二の顔が瞬時に引きつったことは見なくてもわかった。
 それに配慮するつもりは、ない。そして口に出して言ってしまった以上、実現させなければ意味がない。
 ずっと健二の指と絡めていた右手を離し、シャツの襟からのぞく鎖骨へと目的を持って手を這わす。思ってもいなかったところにいきなり触られて、健二の身体がぴくりと跳ねた。

「それに、健二さんのことだから」

 開襟シャツはいちばん上のボタンがひとつ外されているだけで、あまり隙間や余裕はない。そのまま手を動かすのは、少しばかり無理があった。
 シャツのボタンをはじき飛ばしてしまうわけにはいかないから、ひとつずつ外すしかない。でも、空いている左手でそれをこなすのはこれまた難しそうだ。

(めんどくさいな)

 やっぱり、どう考えても直接触るのがいちばんだと思うのだけど。

(もっと、ちゃんと調べとけばよかった)

 そこにたどり着くまでも、意外と難易度が高かった。さすがに、佳主馬の経験値が低すぎる。
 そもそも、経験など皆無なのだから仕方がない。
 でも。

「やることやったら、責任取ってくれそうだし」

 絶対に、そうだと思うのだ。
 健二は流されやすいが、責任感がないわけではない。むしろ、責任感は強いほうだろう。
 最期になってしまったあの日、栄から夏希のことを頼むと託されたと聞いた。そしてその事実がある限り、よほどのことがなければ健二が完全に佳主馬のほうを向いてくれることはない気がする。
 栄は、もういない。もういない相手との約束がもたらす効力は、最強レベルに強い。
 前言撤回することなどできないし、約束を破ってしまったときに謝ることすらできないのだから。
 だから、それを上回るためには。
 栄との約束の効力を凌駕するほどに強く、健二の責任感に訴えかけなければならない。

「せ……責任って」
「男同士でもできるらしいから」

 結局、佳主馬が行き着いた答えは、そこだった。
 しかも、やればいいってもんじゃない。より効果的にするためには、佳主馬にとっては忌々しいものでしかない年齢差だって利用できるなら利用する。
 幸いというか、あいにくいというか、佳主馬はまだ十三歳だ。
 十七歳から見れば子どもでしかない、が。それは、何度考えても悔しいけど。
 だからこそ、健二の責任感に訴えかけることができるという事実にも気づいてしまった。

「で、できるってなにを……?」

 どこか引きつったような声が耳に入る。頭を上げてちゃんと座り直せば、健二と目が合った。
 困っていると表現するよりは、答えは想像つくがそれを認めたくない、とでも言いたげな顔だ。

(往生際悪いな)

 それなら、と。
 視線を泳がせる健二の顔をもう一度両手で固定させると、佳主馬はじっとその目を見つめる。

「セック……」
「わ、わあああああ!! いっ、言わなくていい、言わないでいいから! むしろ言わないで!」
「もが」

 ──結果、片手で口を塞がれた。

「……ひょっと、はにふるの」
「ご、ごごごごめん! で、でも、あの、それは佳主馬くんにはまだ早いと思うよ……!?」

 いっそのこと、口を塞ぐ手のひらを舐めてやろうかという気になっていたのだが。それを実行に移すより早く、健二の手は離れていく。
 少しだけそれを残念に思いながら、佳主馬は改めて健二の顔を見上げた。──あわてすぎたせいなのか、それとも佳主馬が言い損ねた単語のせいなのか、妙に赤くなっている。
 奥手だということは知っていた、が。

(想像以上だな)

 今時、とっくに経験済みの中学生だってそれなりにいるというのに。

「そんなの、僕が自分で決めるからいい」

 年齢を利用しようとしてはいても、やはり子ども扱いされれば面白くはない。ぷいと横を向けば、あわてた健二の声が追ってくる。

「で、ででででも、年齢はおいといても、僕なんか相手じゃつまんないと思うよ? 女の子みたいに柔らかいわけじゃないし、そもそも男だし」
「僕は健二さんがいい。キスするのも触るのも、健二さんじゃないと嫌だ。大体、最初に好きだって言ってるでしょ。何回言わせるの」
「あ、いやだから、忘れたわけじゃなくて」
「いいけど。何度でも言うから」
「え、えええええ。で、でも、やっぱりこれとそれとはまた別問題っていうか」

 なんだか、すっかり堂々巡りだ。好きな相手に触りたいと思うことの、どこが悪いというのか。それがたとえ四歳年上の同性だったとしても。
 それに、おそらく。
 健二はひとつ、誤解している。

「ああもうっ。往生際悪い、健二さん。それに、僕がやるわけじゃないし」
「へ?」

 思いがけないことを言われた、と。じつにわかりやすく表情を変える健二に、佳主馬はじっとその視線を合わせる。
 きっかけは佳主馬が作らなければ、どうにもならないと思っていた。健二にそんなつもりがあるとは、どう考えても思えなかったからだ。
 ただ、健二に責任を感じてもらうためには。
 あくまでも、佳主馬は被害者──というのもおかしいけど、ダメージが大きいほうでなければいけない。
 大体、だ。

「僕がやったら、それ犯罪になっちゃうじゃん。健二さんの同意もないのに」
「え、えええええ!?」
「だから健二さんのを立たせて、それを僕に入れれば問題ないでしょ」

 佳主馬としては、最初から決めていたことだ。
 だから躊躇することもなく、あっさりと口にできたのだが。

(……って、なんでこんなこと、いちいち説明しなきゃなんないの)

 一応、そんな不満はある。健二に察することを期待するのは無茶というか無理難題以外のなにものでもないのだろうけど、でもさすがにこれを説明しなければならないのはどうなのか。
 ……だが。

「だっ…………」

 返ってきた健二の反応は、それこそ佳主馬の予想外のものだった。

「ダメッ、ダメダメダメ、ダメだってば!」
「え?」

 途端に真顔になって、健二は眉をつり上げる。手首をつかまれて、佳主馬は少しだけ首を傾げた。

「なんで」
「なんでって……だ、だだだだって佳主馬くんまだ中学生だから! まずいから!」
「だから、歳は関係ないって言った」
「関係あるよ!」

 勢いも、先ほどまでとはまったく違う。驚いているわけでもない。困っているわけでもない。

(怒ってる?)

 ……というのも、少し違う気はした。
 ただ、なにかに憤っている。そんな声と、表情。
 ──栄が亡くなったあの朝、真顔でただひとり、万助の意見に賛成したときに見た、あの顔。

「…………っ」

 そんな顔を見せられたら、なにも言えない。
 ただどうしようもなく胸が高鳴って、そしてどうしようもなく痛くなる。日頃は気が弱くて情けなくて、すぐにテンパってはあわてるというのに、いざというときだけ明確な意志を見せる、その瞳。
 佳主馬がとらわれたのは、この顔だ。出会ってからたった数日でその存在に圧倒され、そして陥落した。
 すでに他の人のものだと知っていても、あきらめられなかった。あきらめられないならと、勝率は低くても戦うことを選んだ。いざ戦ってみれば、なまじ相手が流されやすかっただけに、うまくすれば手に入りそうなところまでたどり着いて。
 そして、今。真剣な表情で真っ正面から自分を見つめる健二の視線に貫かれて、佳主馬は言葉すら失っている。

「それに中学生なのもあるけど、佳主馬くんまだ小さいじゃないか。そんな無茶、しちゃダメだよ」

 正論なのはわかっている。基本的に、健二はあまり間違ったことを言わない。
 ──だけど。
 それは、佳主馬の逆鱗でもあった。

「……だって、それしかないだろ」

 顔をうつむけて。
 ぎゅっと、健二のシャツを握りしめる。こぼれ落ちた声は、自分が思っていたよりも小さかった。
 他に方法なんて、思いつかなかった。認めたくはないけど、十三歳なんて本当は子どもなのだ、きっと。
 それでも、たぶん。
 好きになってしまった相手が健二でなければ、おそらくはもっとうまくやることができたはずなのに。
 年上の、しかも美人のまたいとこと、相思相愛だなんて人でなければ。

「え……え? か、佳主馬くん?」

 急に様子の変わった佳主馬にあわてたのか、泡を食った健二が顔をのぞき込もうとしてくる。それから逃げることはせず、でも視線を合わせることもないまま、佳主馬は言葉を続けた。
 小さな、声で。

「僕が夏希姉ぇに勝とうと思ったら、それしかない。健二さんに責任取らなきゃって思うようなことさせないと、僕に勝ち目なんか残ってない」
「せっ、責任!?」

 健二の叫びは、まるで悲鳴のようだ。

(なんで、こんなことまで言わなきゃいけないの)

 つくづく、貧乏くじだ。全部白状したら、健二が哀れに思って策に乗ってくれるわけでもないのに。
 それに気づいてしまえば、ますます気持ちが落ち込んでいく。一瞬でもうまくいきそうな気がしただけに、その傷は深い。

「というか、だからなんで夏希先輩? さっきもそんなこと言ってなかった?」

 なのに、健二はそんなことを言うのだ。
 だから。

「だって……だって、健二さんが好きなのは夏希姉ぇじゃないか!」

 がばっと、それまで伏せていた顔を上げる。まっすぐに健二をにらみ返した視線は、今まででいちばんきついものだったに違いない。

「えっ? え……えええええ!?」

 目を剥いて驚く健二の反応なんて、信じない。それを信じられるほど、佳主馬はもう子どもではないつもりだった。

「違うとか嘘ついたら、もうなに言われても強引に押し倒す。乗ってやる」
「ちょ、ま!? いや、そりゃたしかに夏希先輩のことは好きだけど、それはいわゆる憧れってやつでね!?」
「嘘つき」

 たとえ、もし本当に憧れだとしても、夏希は健二のことが好きだ。かわいい後輩としてではなく、今はもう立派な恋愛対象として。
 憧れの先輩と、弟みたいな年下の子。同じ好意を向けられれば、どちらを取るかは一目瞭然だ。そんなの、考えるまでもない。
 ……だから、
 結果的には、あまり変わらない。

「嘘じゃないってば! そういう意味では佳主馬くん誰にも負けてないから! そんなことしなくても大丈夫だから!」
「嘘」

 なにを焦っているのか、せわしなくまたたきを繰り返しながらそう言い募る健二の言葉は、すべて嘘に聞こえた。
 健二には、嘘をついているつもりなんてまったくないのだろう。それは、わかる。

(わかるけど)

 そう遠くない未来に夏希が動き出せば、それはすべて嘘に変わる。
 だからこそ、先手を打とうとしたのだから。
 もしかしたら、という願いを込めて。

「ホント! 急ぐ必要なんかどこにもないって。佳主馬くんに対する責任なら、ちゃんと取るから!」
「……嘘だ」
「ホントだって……ああっ、もう!」

 健二が乱暴にそう言い捨てたとき、佳主馬は特になにも考えてはいなかった。ただ、もうリベンジはできそうもないと、そんなことをぼんやりと思っていただけだ。
 それに、その後の展開をそのとき予想することができなかったのは、佳主馬の想像力が貧困だったからではない。決して、ない。
 ただ、驚いたのはたしかだった。

「……え」
「僕は佳主馬くんのこと、好きだから」

 いつの間にか腰に回っていた腕の力に引き寄せられ、そしてあごにかかった手に上向かされて。

「夏希先輩よりも……誰よりも、ずっと」

 そんな、ささやきと共に。

 ──唇が、塞がれたから。



 まったくもって自慢にはならないが、キスなんて生まれてこのかたしたことがなかった。

 この間、夏希にされたあれが最初で最後だ。キスされた場所は唇ではなく頬だったが、それだって正真正銘初めてだ。小磯家はごくごく普通の日本家庭だったので、家族同士で額にキスだの頬にキスだのは今まで一度もやったことがない。より正確に表現するのなら、どちらかといえば一般的な日本家庭以下のスキンシップしかしてこなかった。
 それに加えて、健二は自他共に認める超絶奥手だ。たとえしたことはなくても知識くらいあるだろうと言われれば、否とは言えないが自信を持って首を縦に振ることもできない。むしろ、すでに据え膳を一度目前で蹴り飛ばしている身だ。鼻血を出してぶっ倒れたなどと、佐久間に知られたらどれだけ笑われることか。──まあ、どうせすぐにバレるのだろうが。
 だから、それっぽい雰囲気なんて少しもわかりはしないし、もしかしてと思ったところですぐに「そんなはずあるわけない」と勝手に脳が否定する。そういうことには、あまりにも不慣れなのだ。夏希に白状した、「女の人と付き合ったことがない」というある意味情けない事実はダテじゃない。
 ただ、今日ばかりは。

(バカか、俺)

 自分のその天然記念物並の鈍さに、健二は怒りを抱きそうになっていた。
 自分ではない他人の気持ちを察するのは、健二にはかなり難しいことだった。だが、それを言い訳にしていてはいけないのだ。
 佳主馬は今まで、自分にまっすぐ気持ちをぶつけてきてくれていた。
 それに対して、今まで一度もわかりやすい応えを返していなかった自覚は、ない。
 ──否、なかった。
 今日までは。

「…………っ」

 キスなんて、今日までしたことがない。初めて唇と唇を触れ合わせたのだって、ほんの数分前のことだ。
 やり方なんてもちろん知らなかったけど、それでもなんとかなるものだということはたった今知った。唇を触れ合わせるだけの軽いものだけではなく、舌を絡ませあうことでもっと深く繋がれることも知った。

「……けん、じ、さん?」

 佳主馬はまだ、健二のシャツをつかんだままだった。その手が、小刻みに震えている。
 それが恐怖や寒さのためではないことくらい、さすがの健二にもわかった。

「そうだよね、ちゃんと言ってなかったよね。ごめん、佳主馬くん」

 健二の上に乗っている小さな身体は、両腕を回せばすっぽりとその内に収まってしまう。いくらOMCのチャンピオンで、そして大人顔負けの強さを誇ってはいても、やはりまだ佳主馬は子どもで。
 不安にだって、なるだろう。冷静さの仮面をかなぐり捨てて、がむしゃらになにかを求めることだってあるだろう。そんな子どもらしいところを佳主馬の中に見つけるたび、健二は彼から目を離せなくなる。
 それに、佳主馬は健二のことが好きだと、まっすぐにその気持ちをぶつけてきてくれる。ためらいなど、少しもありはしない。
 その居心地の良さは、格別で。
 いつしか、手放せないものになっていた。
 ──なぜなら、健二の気持ちも、とっくの昔に佳主馬のほうを向いていたから。

「僕のファーストキス、佳主馬くんだから」
「……うん」

 真っ黒な髪を優しく撫でれば、おずおずと健二の背中に佳主馬の細い腕が回る。ぎゅっとしがみついてくる小さな身体が、愛おしい。
 肩口に顔を埋めると、腕の中にある身体がくすぐったそうに身じろぎした。

「佳主馬くんのは?」
「……言わなくてもわかるだろっ!?」

 耳元でささやくように問いかければ、怒ったような答えが返ってくる。なにそんなこと聞いてんの、信じらんないと、ブツブツ小声で呟いていたらしい文句まで聞こえてきた。

(かわいいなあ)

 さっきは平然とした顔でそれ以上のことをしようとしてきたくせに、今はこんな些細なことで恥ずかしがっている。そのギャップが、また面白い。
 ただ、あそこまで佳主馬が思い詰めたのも健二が態度をはっきりさせなかったせいかと思えば、さすがに罪悪感が募るのだ。
 佳主馬がいくら聡いからといって、甘えすぎてはいけないということだろう。そんなことを今頃学習する自分自身に呆れると同時に、佳主馬のすごさに思わず感心する。
 誰よりも、大切にしたかった。
 だから今は、こうやって腕の中で抱きしめるだけでいい。それを許してもらえるのなら、それ以上の幸せはない。

「えええ。聞きたいなあ」
「……健二さんだよ、決まってる」

 それは耳を澄まさなければ聞こえないほどの、小さな小さな声だったけど。

「うん」

 健二の心には、どんな音よりも大きく、響いた。


End.




終始話題が話題なのに、まったくもって色気がなさすぎてすみません。
しかも無駄に長くて、さらにすみません。2話分ある……。

ひとまず、これで終わりになります。ケンカズ襲い受け……になれたかな……。
気持ちだけはケンカズの佳主馬襲い受けです。R15にも至ってないので、あまり意味ないっちゃないんですけどね。と、自分で自分を慰める。

途中えらく間が空きましたが、最後まで読んでくださってありがとうございました。