続・1度目の夏

 佐久間敬は、どちらかというと敏いほうだった。

 本人にその自覚は、ないこともない。数学に関すること以外に対してあまりにも鈍感すぎる親友がいるため、下を見たらキリがない、自分などは普通だとずっと思っていたのだが、最近そうでもないような気がしてきていた。
 ──まあ、それを佐久間自身に悟らせたのも、その鈍感すぎる親友を取り巻く人々ではあったのだが。
 できれば、もっと違う理由で気づきたかった、とも思ってしまうのだ。もしかしたら、それはとてつもなくぜいたくな願望なのかもしれなかったが。

「えっ。佳主馬くん、遊びに来てくれるの?」

 健二の弾んだ声が、窓際から聞こえてくる。
 佐久間と夏希に注目されて、健二が携帯電話を掴んだまま窓際へと逃げたのはほんの数分前のことだ。電話の相手は、キング・カズマのユーザーこと池沢佳主馬。こちらに背を向けて電話に集中している健二を先ほどからじっと見つめている、篠原夏希の親戚だ。

 とりあえず、佐久間は。
 先ほどからずっと注がれ続けている強い視線に気づかないまま、楽しそうに佳主馬との会話を続けている健二の鈍感さに、心の底から感心している。
 そして、なぜそんなものに気づいてしまったのかと、自分の不運さも嘆いていた。……まあ、気づかないほうが難しいのだが。
 そして。

「……うん、明日も食べにこよう」
「は?」

 佐久間の横にいた夏希が、ぽつりと呟いたのはそんなセリフだ。
 なぜ、そんな結論に行き着いたのか。予想できるようなできないような、簡単に考えつくような考えたくないような、そんな複雑な感情が佐久間の内を駆けめぐる。
 そもそも、なぜここに自分が居合わせているのか。
 ──まあ、仕方がない。なにしろ、ここは物理部の部室だ。
 ここで繰り広げられる以上、遭遇しないことは不可能に近い。

「お昼。佐久間くんたちは食堂、行かないよね?」

 健二の背中から視線を外し、正面から佐久間を見据えた夏希の表情は、この上なく真剣だ。だから適当なことを言うわけにもいかず、ちゃんと真面目に考える。

「はあ……たぶん? 混んでますし」

 授業があるときだって、めったに食堂は使わない。だから、これで間違ってはいないはずだ。……多分。
 いささか頼りない返答だとは思うが、それこそ世界の危機にでも遭遇しない限り競争心とは縁のない日々を送っている物理部員2名が、食堂という戦場に好んで飛び込むとは思えない。

「うん、わかった」

 そして、夏希はその答えにまったく疑問は抱かなかったようだ。こくりとうなずくと、なぜかぐっと両手を握りしめて拳をつくる。
 ──ものすごく気合いが入っているように見えるのは、はたして佐久間の気のせいか。

「えーと、先輩?」
「お弁当持ってくるのは無理だと思うけど、明日も一緒に食べよ」
「はあ」

 そう口にした夏希の視線がふたたび向かった先は、携帯を耳に当てて喋っている健二の横顔だ。
 目当ては、明確。めまいがしそうなくらいに、わかりやすい。わかりやすすぎる。
 しかも、夏希にそんな決意をさせたきっかけも、大変わかりやすい。佐久間が気づいたことに夏希も気づいたのかどうかはわからないが、おそらくは本能的に何かを悟ったのではないだろうか。
 このままでは出遅れる、と。
 だから、ついため息をついた。

「……先輩ってもっと奥手かと思ってましたけど、開き直るとそうでもないんですね」

 なのに。

「えっ? なんのこと?」

 当の本人は、そんなことを言うのだ。

「…………」

 まさかとは思うが、無自覚か。無自覚なのか?

 ──不思議そうにまばたきを繰り返している夏希の反応を見る限り、そうとしか思えない。

「……俺、なんで気づかなくていいことばっか気づいちまうんだろ……?」
「へ? 佐久間くん、なに言ってるの?」
「や、なんでも」

 やはり、自分が敏いわけではない。周りが天然というか、鈍感すぎるだけなのだと。
 佐久間はせめて、自身にそう言い聞かせることにした。