携帯が電話の着信を知らせたのは、健二が佳主馬へとメールを送ったすぐ後、だった。
「うわ、はやっ」
鳴り響く呼び出し音は、携帯のアドレス帳で『陣内』と名付けたグループに設定したものだ。夏希から電話が来ても同じ音が鳴っていたことを思い出して、少し甘酸っぱい気分になったのはお約束か。
「キング?」
「佳主馬?」
「う、うん」
またしても、両側から即座に反応がある。着信を知らせて手の中で震える携帯を、佐久間と夏希が興味津々にのぞき込んでいた。
……なんというか、この状況。
大変、着信ボタンを押しにくい。
「え……ええっと。ちょっと、失礼っ!」
結果として。
聞かれたらまずいことを話すわけでもないというのに、ついなんとも形容しがたい恥ずかしさに耐えかねた健二は。
気がつけば鳴り続ける携帯電話をひっつかんで、部室の窓際へと退避していた。
続・1度目の夏
後編
「もっ、もしもし!?」
『……健二さん? どうしたの、そんなにあわてて』
電話していいよと言われて電話をかけたのに、誤解のしようもないほどにあわてふためいた声に出迎えられれば、誰だってそう言うだろう。手のひらにおさまる小さな機械を通して聞こえてきた佳主馬の声は、どう考えてもいぶかしげなものだった。
健二にもそれはわかるのだが、だからといってそこで完璧に取り繕えるようなスキルなど最初から持っていない。事前に覚悟でも決めていたのであればともかく、予想もしていなかった周りの反応からとっさに逃げ出した直後だ。
「な、なんでもない! なんでもないよ!」
『……そうは聞こえないんだけど』
「そっ、それより!」
結果としてよけいに墓穴を掘った気もするが、そんなことに気が回るようなら最初からそんな下手なごまかし方をしようなんて思わない。電話の向こう、顔の見えない相手の動向を探をうとしている声音を振り払うように、健二は無理矢理声を張り上げて話題を変えた。
「写真、見てくれた!?」
『え……あ、見たよ』
「ね、美味しそうだろ!?」
『ああ、うん。すごいね』
まさかこれでごまかされてくれたとは思わないが、とりあえずかなり強引な話題転換に、佳主馬も一応ついてはきてくれたようだ。聞こえてくる声の調子が、健二にもわかるほどに変わった。
それまでのいぶかしむようなものから、虚を突かれたのか少しだけ気が抜けたものに。
(よ、よかった)
佳主馬は大人も顔負けのしっかりした子どもで、そう簡単にだまされたり流されたりはしないしたたかさを十分持ってはいたけれど、でもやはりそこはまだ13歳だった。少なくとも相手が信頼している人間である場合、意外と素直に告げられた言葉を受け入れる。それも、疑うことなしに。
そんなところがかわいいし、そして年上としてちゃんと見守っていてやらないといけない部分だと思いつつ、今はそれを利用させてもらうことにした。
(……あとで、それこそ忘れた頃に追求されかねないけど)
まあ、それは一応覚悟しておくべきだろう。
できれば、それは佐久間も夏希もいないときにして欲しいとは思うが。
「3人で食べてもけっこう残っちゃってさ。もったいなかったなあ。でも剣道部が合宿やってるから、そっちに持って行くって」
そして、話題を無理矢理逸らしたのはたしかに健二なのだが。
『……夏希姉ちゃんって、いつも来てるの?」
「え? 来てるって、どこに」
今度はそこから予想外の方向に話を振られて、一瞬なんのことを言われているのか理解できなかった。
言うまでもなく、夏希は久遠寺高校の生徒だ。いつもこの校舎に来ていて、おかしいことなんてひとつもない。むしろ、来ていないほうが問題で。
(いや、でも、今って夏休みだし)
だから、不思議に思っているのだろうか。
健二が佐久間と一緒に夏休み後半も部室へ詰めていることは、佳主馬も事前に知っていた。理由は簡単で、他でもない健二がそれを教えたからだ。
ただ、それと同じようなタイミングで、夏希の夏期講習が始まることも伝えていたような記憶がある、が。
だがその疑問は、すぐ解決に至った。
『そこに昼、食べに』
「あ、部室に?」
『……そう』
どこか言いにくそうにではあったけれど、佳主馬がそう続けてくれたからだ。
言われてみれば、納得できる。夏期講習中の最上級生がバイト中の後輩と一緒に弁当を食べている光景は、たしかにあまり見かけない。
「ううん、今日が初めてじゃないかな。先輩の夏期講習、今日からだし」
『ふうん……これからも?』
「え。そ、それはわからないけど」
いくらなんでも、雪子だってそう毎日あんな気合いの入った弁当は作っていられないだろう。そして佳主馬曰く、夏希の腕だったらゆで卵がせいぜい。
本当にそうなのかは夏希本人に聞いたわけでもないからわからないが、夏期講習に追われる受験生が朝っぱらから早起きして複数人数分の弁当作りにはげむとは思いにくい。
(今日は、あの弁当のためにわざわざきてくれたんだろうし)
そうでなければ、教室から離れたこんな部室棟まで足を伸ばす必要などないはずだ。
そりゃあ、まだ夏希の夏期講習はしばらくの間続く。そして、健二たちのバイトもずっと続く。
その間、毎日今日のように3人で一緒に昼ご飯を食べることができるなら、それはそれでとても幸せだけど。
「さすがに、夏希先輩に聞いてみないと。でも、そうだったら嬉しいなあ」
だから、ほんの少しの願望もこめて、そんなこと言葉を返す。
『そう』
──そこで、なぜか佳主馬の反応は途絶えてしまった。
(……あれ?)
携帯越しに返ってきたのは、沈黙。その事実に、健二はまたしてもあわてそうになる。
なにか、まずいことを言っただろうか。聞かれたことには、ちゃんと答えたつもりだったのに。
佳主馬は、そんなに口数が多いほうではない。でも、こうやって会話の途中で黙り込んでしまうことはあまりなかった。というか、健二は遭遇したことがなかった。
となるとやはり、今ここに沈黙が訪れているのは、健二の答えかたがまずかったからだと考えるのが妥当なわけで。
(ううう……今度はなにやったかな……)
よくよく考えてみれば、そもそも胸を張れるような対人スキルなどありはしないのだ。それは、健二自身がいちばんよく知っている。
「あ……あの、佳主馬くーん……?」
でも、健二は一応これでも年上だった。少なくとも、佳主馬よりは。
この状況を招いたのが自分なのであれば、それを打開しなければならない。なによりも、健二自身がもっと佳主馬といろいろな話をしたかった。
(上田では、もうちょっとスムーズに話せた気がするんだけどな)
それはやはり、互いの表情が見えていたからだろうか。
OZでテキストを介してのチャットをしているときは、こんなもどかしさなんて感じなかった。声が聞こえるのに、顔が見えない。声から相手の感情がほんのわずかだけ伝わってくるのに、少なすぎてすくい取ることができない。
佐久間と電話をして、こんな気分になったことなどなかった。……そして、健二はやっと思い出す。
まだ、佳主馬と知り合ってから1カ月も経ってはいないことを。
『……あのさ』
「あ、うん」
──そして、やっとノイズ混じりの声が耳に届いた。
かなりの間を置いて戻ってきた佳主馬の反応に、健二はつい手にしていた携帯を強く握りしめる。寸前まで頭の中で渦を巻いていた思考なんて、一瞬のうちにどこかと消え去った。
聞こえてきた声は、先ほどまでより少しだけ、小さい。
どこかためらうような、迷っているような、そんな雰囲気を感じさせる。……佳主馬らしくないといえば、佳主馬らしくない。
「どうかしたの?」
ちょっとだけ心配になって、健二も少し声を潜める。
もし、佳主馬になにか相談事でもあるのだとしたら。それが、健二に電話をかけてきた理由だったとすれば。それに応える健二の言葉と声だって、少し離れた場所にいる夏希たちに聞こえないほうがいいに違いない。
そんな、健二なりの配慮だったのだけど。
『健二さんて……9月の連休、暇?』
「へ?」
それはいっそ見事なほど、無駄に終わった。
またしても、話題が急に変わる。というか、まさしくすっ飛んだ。
あまりに落差のある変遷に、着地点が見つけられない。問いかけられた言葉の意味を必死でかみ砕いてみれば──それは文字通り、難しくもなければ悩む必要もない、簡単な質問だ。
(え? 9月の連休って)
たしかに、来月には連休がある。あるが、そこの予定を佳主馬が聞いてくるということは。
つまり、どういうことか?
『……やっぱり、いい。聞かなかったことにして』
「えっ、ええっ、なんで!? ごめん、ちょっとびっくりして! 暇、暇だってば!」
またしても止まりかけた思考回路は、拗ねているようにしか聞こえない佳主馬の声によって、強引に再起動をかけられる。驚きすぎたせいか、張り上げた声はひっくり返っていた。
それが功を奏したとは思えないが、一応健二の気持ちは誤解なく佳主馬へと伝わったようだ。
『連休に……東京、行こうかと思ったんだけど』
ぼそぼそ、と。
今まででいちばん小さな呟きが、耳をくすぐった。
──さすがの健二でも、いい加減気づく。
「えっ。佳主馬くん、遊びに来てくれるの?」
『……健二さんがいいなら』
「いいに決まってるよ!」
「わあ、そうかあ。来てくれるんだ。楽しみだなあ。どこか行きたいところとか、ある?」
『なにがあるか知らない』
「あはは、それもそうだよね」
9月の連休は、約一カ月後。まだ一カ月もある、そう思えばその日が待ち遠しいけど、きっとそれまでにやることはいくらでもある。
まずは、佳主馬をどこに連れていくかを決めなければ。
(佐久間にも相談してみようかな)
きっと佳主馬が東京に来るとわかれば、会いたがるだろう。佐久間は、健二以上に熱烈なキング・カズマファンだ。
でも、まずはその前に。
「じゃあ、今度OZで相談しようか。情報とか集めやすいしね」
『うん。……今夜でもいい?』
「いいよ!」
もうひとつ、別の約束も取りつけて。
健二は上機嫌で、佳主馬との通話を終わらせたのだった。
すでにもう使い古されたネタではありますが、というか9月の連休なんてとっくの昔に過ぎ去ってるわー! という感じですが、まあお約束ということで。
物理部ぐだぐだ状態とメールやりとりと遠距離のお約束・電話を全部一緒にやろうとしたら、前中後編になったというオチです。
ひとつずつやればよかったんじゃね、と今さら思ってもすでに後の祭り。
長々とお付き合いありがとうございました。