言うなれば後悔先に立たず

4


ダメージを受けて吹き飛ばされたフシギバナの体が、白く降り積もった雪の上へと沈んだ。

「…………っ」

そのまま、傷ついたフシギバナはモンスターボールへと戻っていく。瀕死状態になって、それでもすまなそうにボールの中から見上げてくるその瞳を目の当たりにしたレッドは、そっと指でボールの表面を撫でた。

「お疲れさま、ありがとう」

ぽつりとこぼれ落ちた声音は、レッド自身が想像していたよりも柔らかかった気がする。
彼らは、よくやってくれた。
このシロガネ山に来る前から、彼らはレッドと共にあった。何を思ったのかいきなりこんな過酷な環境の地に腰を落ち着けたトレーナーに、文句ひとつ言わずついてきてくれた仲間たちだ。
なぜ、こんなところに来たのか。なぜ、こんなところにいるのか。
──もちろん、答えはたったひとつだけだ。
強くなるために。強くなければいけないから。
それはレッドの脳裏に、まるで強迫観念のようにこびりついて。
あまりにもそれにこだわりすぎて、本当に望んでいたことがいつのまにか遠くなりかけていたのかもしれない。
頭の隅、心のどこかでぼんやりと、そんなことを思う。

「……か……っ、た?」

ぽかんと、口を開けて。目を、まん丸くして。
その子は、レッドの前に立っていた。
絶対に勝つと、豪語していた。それは、確か何ヶ月か前の話。
この場でまだ戦えるポケモンは、バクフーンたった一体。その一体も、ほとんど体力は残っていないだろう。
そして、そのポケモンのトレーナーは、自分ではない。レッドでは、ない。
逆さまに被った帽子から紺色の髪がはみ出ている、目の前の少年だ。
──ちょうど、レッドがグリーンに勝ってチャンピオンになった頃と、同じくらいの年齢だろうか。
体力が尽きかけているせいでフラフラと、それでも勝ったことに喜びながら自身のトレーナーに駆け寄ったバクフーンの顔に抱きついたその子の顔は、わかりやすく信じられないと主張していた。

(ああ、負けちゃった)

ふ、と。レッドの心から、何かが落ちていくような気がする。
強くなければ、ライバルでいられないのに。
グリーンが、追いかけてきてくれないのに。

(……でも。僕のこと、ライバルだってまだ言ってくれたんだ)

レッドをとうとう負かしたこの子どもは、前にそんなことを言っていた。
どこに行ってしまったのか、心配していると。そして、レッドはグリーンのライバルだと。
それを聞いて、レッドは心の底からホッとした。
幼馴染みという絆は簡単に消えないと、そう思っていた。しばらく会わなくても、ちょっとはさみしく思ったり懐かしく思ったりはしても、消えたりはしない。
でも、それ以上に安堵した。ライバルだと、レッドをそう呼んでくれたこと。

(だから、なおさらこの子に負けるわけにはいかなかったのに)

だって。ヒビキの名乗った目の前の少年は、本気のグリーンに勝ったことがあるというのだ。
勝率は、半分を越えるかどうか。そんなことを言われれば闘志以外の何かも胸の中に燃え上がる。

(グリーンが負けていいのは、僕だけなのに)

それなのに、どうして。そんな、決してさわやかとは言えない気持ち。
たぶん、それはやきもちとか嫉妬とか独占欲とか、そんなカテゴリに入れられるべきものなのだろう。
しかも、その子が山を下りろとか言出すから、腹立ちまぎれに『自分に勝てたら』、と条件を出した。そうしたらその子は、少しずつグリーンを思い出させる戦い方をするようになった。
レッドがグリーンと最後にバトルをしたのは、3年も前の話だ。今まででいちばん楽しかった、セキエイ高原ポケモンリーグ本部の、チャンピオンの間での戦い。
もう3年も経っていたのは少しばかり予想外だったけど、あのバトルを忘れたことはない。あの時の楽しさも、あの後にレッドを襲ってきた恐怖も、忘れたことはない。
だから、すぐにわかった。グリーンが、その子と頻繁にバトルを繰り返していること。
つまり、レッドを倒すために、この子に戦い方を教えているということ。
よくわからないが、面白くなかった。グリーンは、レッドのことは知らないはずだ。余計なことを言われないように、先手を打って口止めした。手加減は、しなかった。
なのに、ヒビキの修行に付き合っている。
レッドはもうずいぶんと長い間、グリーンに会ってすらいないのに。
──好きでここに、シロガネ山に閉じこもったのは、レッド自身なのだけど。

(どうして、なのかな)

レッドは、バトルが好きだ。
相手のトレーナーがポケモンを愛して共に戦っているのなら、どんなバトルでも楽しめる。でも、やはり強い相手と戦うのはより楽しい。
自分の限界を越えられるような気がするし、ギリギリの世界を綱渡りのように進んでいく緊迫感は何にも代え難いものだ。
だから、ヒビキとのバトルを楽しく感じるのは、当然だった。しかも、グリーンを思い出させる戦い方をする相手だ。楽しくないわけがない。
それなのに、目の前にいるのがグリーンではないことにどこか苛立つ。なぜグリーンがここにいないのかと、そう思う。

(自分から、逃げたくせに)

それくらいの自覚はあった。でも、心はそう告げる。
どうして、グリーンではないのか、と。

「きみの、勝ちだよ」

そして、今。ついに、負けた。
グリーンを思い出させる戦い方は、それにヒビキ自身のアレンジが加えられていつのまにか彼独自のものになっていたけど、やはりグリーンらしさも残っている。
負けはしたが、楽しかった。心が浮き立って、わくわくした。
でも。

(もしグリーンに負けたんだったら、もっと清々しい気持ちになるんだろうな)

負けてしまったら、グリーンにライバルと思ってもらえなくなるかもしれない。
そんなことを考えていたくせに、そんなことを思う。
──でも、もしかしたらこれでやっと、グリーンと対等になれたのだろうか。
勝ちと負けを、たくさんの楽しさとほんの少しの悔しさを知って。

「あ……っ、ありがとう、ございますっ!」

やっと事態を把握できたのか、頬を紅潮させたヒビキが勢いよく頭を下げている。その姿は、負けたほうが微笑ましい気分になってしまうほど、嬉しそうだ。

(グリーンも、そう思ったのかな)

グリーンがレッド以外に負けたところなんて、見たことがない。だから、よくわからない。
負けず嫌いだから、どんな理由があろうと負ければ悔しいはずだ。でも、ヒビキはどう考えたってグリーンと何度も戦っている。
大体、今はジムリーダーをやっていると聞いた。そのたびに、レッドが見てきたような悔しがり方をしているとは思いがたい。
たぶん、もっと空気を読んだ、落ち着いた態度に出ているのではないだろうか。
……あくまでも予想であり、想像であり、そしてレッドの単なる願望でもあるが。

(せめて、あれくらいは僕だけのものにしておきたいな)

あんな素直じゃない悔しがり方は、できるならレッド相手にだけしてほしい。
それくらいは、幼馴染みの特権として確保していたかった。今、こうやって離れているレッドが願うべきことではないかもしれないけど。
そもそも、一緒にいたかっただけなのに、なぜ離れているのか。
──たぶん、たったひとりに対して、臆病だったからだ。

(会っても、大丈夫……?)

……もう、あんな目で見ないでくれるだろうか。
3年経っても忘れられない、突き刺さるような視線。
まだ、レッドのことをライバルだと思ってくれているのなら、大丈夫かもしれない。
連絡ひとつ入れなかったレッドを、心配してくれているのなら。

「あの……レッドさん」
「……なに?」

気がつけば。先ほどまではしゃいでいたその子は、真顔でレッドのすぐ近くにいた。
傷だらけのバクフーンは、モンスターボールに戻したようだ。今はもう、外に出ていなかった。
……確かに、吹雪に混じってあられが降るここの環境は、人間にもポケモンにもあまりにも過酷だ。特に、傷を負った状態では。

(ちょっと、触ってみたかったな)

脈絡もなく、そんなことを思う。
そして、そんな風に一瞬逸れたレッドの意識を戻したのは、いつのまにか間近に近づいてきていた少年が口にしたことだった。

「聞きたいことがあるんです。レッドさんにとって、グリーンさんはライバル……ですよね? たったひとりの」
「……当たり前だよ」

そんなの、当然のことだ。今さら言われるまでもない。
もしかしたら一方通行かもしれないと思っていたその気持ちが、ちゃんと双方向だったことを教えてくれたのはこの子どもだ。だから、今さら確かめるようにそんなことを聞かれる理由が、まったくわからなかった。

「それなら……すぐに山、下りたほうがいいと思います」
「なんで」
「グリーンさん、レッドさんのことすごく心配してましたけど……それ以上に、さみしそうでしたよ」
「…………」

レッドがいないことを、さみしがる。そんなグリーンの姿を想像するのに、少しばかりレッドは苦労した。
ああ見えて世話好きだから、彼に心配されるのはわかる。前、心配されていることを知って、ちょっとどころかかなり嬉しかった自覚もあった。
でも、さみしがる。それは、はたしてどうなのか。
レッドの知っているグリーンは素直じゃない天の邪鬼だったから、気づかなかっただけか。
……確かに目立ちたがりだったし、孤独を好むタイプではないことも知っているし、どちらかといえばさみしがりだった気もする。だが、それはレッドにも当てはまってくれるのだろうか?

(当てはまるなら、それはそれで嬉しいけど)

もしかしたら、心配されるよりも嬉しいかもしれない。このときばかりは、感情があまり表に出ない自分の顔に、レッドは感謝した。
──ただ、その場合。
ものすごく大切なことをひとつ、見落としていることになるような気がする。
しかも、だ。

「あんまりほっとくと、ライバルだってこと忘れられちゃいますよ」
「…………」

年下の、つい先ほど自分に勝ったばかりの少年に、ものすごく神妙な顔でそのものずばりを指摘された。
……予想外に、というか予想以上に。
その言葉は、レッドの胸にざっくりと深く突き刺さる。

(それは、困る)

シロガネ山にこもったのは、なによりも怖かったからだ。
ライバルでなくなってしまうこと。
そして、悔しさと悲しさと憎しみしか映していなかった、グリーンの瞳。
ずっとライバルでいたかったのに、とてもそんな気持ちを抱いているとは思えない相手の視線から逃げた結果、ここにいる。
強ければ、グリーンに負けなければライバルでいられるのだと自分に言い聞かせて。

(グリーンなら、ほんとに忘れかねないや)

人付き合いがよくない・悪いを通り越して、ないに等しいレッドと一緒にしてはいけない。グリーンは、基本的に社交的だ。少なくとも、レッドの知っているグリーンは素直じゃないし天の邪鬼だし妙に上から目線だったけど、人懐っこくて世話焼きだった。
だからこそ今、ジムリーダーなどという役目を果たしていられるのだろう。ジムリーダーというのは単にバトルが強いだけではこなせない立場であり、当然ながらレッドにはとてもじゃないができる気がしない。
とにかく、だ。
そんな、忙しい毎日を送っているはずのグリーンが、ライバルとしてのレッドのことをきれいさっぱり忘れたとしても、おかしくはない。

(結局、グリーンのことばっかりだ)

昔から、そうだった。レッドの大して広くもない世界には、いつだってグリーンが多大な影響を与えている。
それを嫌だと思ったことなんてない。
誰よりも近しい相手だった。
近すぎて、彼の一言一句に言い切れないほどの影響を受けた。
3年離れていても、なお。

「ぼく、ぎりぎりでも勝ちましたよね? だからもう、口止めは無効、ですよね?」
「え」
「じゃあ、そういうことで! また挑戦しにきますから、その時はよろしくお願いします!」
「……え?」
「ポケセンいかなきゃー!」

最後に意味不明なことを言い残して、少年──ヒビキはあわただしく下山していく。

「……口止め」

そういえば、した。グリーンに、自分を見つけたことを告げるな、と。
あの調子だと、すぐにばらされそうだ。
そして……レッドの居場所を知ったグリーンが、どんな行動をとるのか。
それを知りたいような気もするが、知りたくないような気もする。
期待していることと正反対のことをされたら、またしばらくこの山から下りたくない気分になりそうだ。
……でも、そういうわけにはいかない。気づいてしまったから。
それに、何よりレッド自身が。

(グリーン)

──今、誰よりも。
その人に、会いたかった。