はじまりの色
2
グリーンのことが好きなんだ、と。
今さらではあったものの改めて自覚したら無性に顔を見て声を聞きたくなってしまったので、レッドは山を下りてその人に会いに行くことにした。
急に訪ねていって、仕事だなんだで手が離せなかったとしたらどうするのか、と。
さすがに理性らしきものが脳内でぼやいていたような気もするが、最初からそんなものに耳を傾ける気がレッドにはない。
(じゃあ、誘拐ってことにしよう)
そう、勝手に決める。やっぱり、誘拐される相手――グリーンの都合は、聞くつもりもなかった。
思い立ったのが遅かったせいで、リザードンに頼んで空へと舞い上がった時にはすでに日も暮れかけていた。濃いめの青と茜色のグラデーションが、空を彩る。
(きれいだな)
常に吹雪いているシロガネ山では、あまり見ることのできない空の色だ。
山へとこもる前は、何度もこんな色の空を見上げていた。旅をしている頃は暗くなっていく視界にほんの少し焦って、旅に出る前は遊ぶのをやめてもう帰らなければいけないことに不満を抱いた。
あの時、なぜ移りゆく空の色を見ても帰りたいと思わなかったかなんて、今なら考えるまでもなくわかる。
(大体、結局は帰ってからも一緒に遊んでたじゃないか)
だからこそ、不満を抱きつつもおとなしく家に帰っていたのかもしれない。そんなことを思って、レッドは自身のわかりやすさに少しだけ苦い笑みを浮かべた。
成長していないと言われれば、それまでだ。レッドの世界は、あの頃から大して広がっていない。相変わらず、狭いままだった。
ポケモン図鑑を完成させても、チャンピオンになって足を伸ばせる範囲が広がっても、背が伸びても、少しは大人みたいな考え方ができるようになっても、レッドが自身の心のいちばん近くに置いているものは変わらない。
「グリーン、どっちにいるかな」
風を切って空を飛ぶリザードンの背を撫でながら、レッドは首を傾げる。
ジムのあるトキワシティ、それとも家があるマサラタウン。その他の場所に出向いているとしたら、さすがにちょっとわからない。
とりあえずトキワジムを覗いて、そこにいなかったらマサラタウンにあるグリーンの家へ勝手に上がり込んで、帰りを待つ。それが、いちばん良さそうだ。
「トキワに……」
心の中で決めて、それをリザードンに伝えようとした、その時。
リザードンがレッドに何かを伝えるかのように、一声鳴いた。
「え?」
リザードンはそのまま何かを目指して、高度を下げていく。向かっている先は、おそらく町と町をつなぐ道路だ。
(あそこは……)
実際に道を歩くのと、道を空から見下ろすのとでは、だいぶ印象が違う。だから、すぐには気づかなかった。
もう、こんな近くまで来ていたことにも、気づいていなかった。
今、リザードンが下りていこうとしているのは、トキワシティとマサラタウンを繋ぐ1番道路だ。
目を凝らせば、トキワシティからマサラタウンに向かってゆるやかに下っている草むらの多い道を、のんびりと歩いている人が見える。
――その姿を、見間違えることはなかった。
「ありがとう、リザードン」
わざわざ口に出して言わなくても、付き合いの長いこのポケモンはレッドが何をしたいのか察してくれる。
今日は最初から、グリーンに会いに行くと告げていた。だから、ずっと探していてくれたのだろう。
感謝の気持ちを込めてやさしく首筋を撫でれば、リザードンは嬉しそうに鳴いた。
いきなり目の前にリザードンの巨体が降り立ったら、さすがに驚くだろう、と。
一応レッドなりに配慮して、マサラタウンに向かっているグリーンの背後に着地するよう指示したのだが、それでも振り返ったグリーンには十分驚かれた。
(まあ、それもそうか)
レッドだって、いきなり背後から音と突風が押し寄せてくれば何かと思う。
しかもそこにいたのが自分から山を下りてくることなんてめったにない幼なじみであれば、驚かないほうがおかしい。
ただ、そんなことはどうでもよかった。
あ然として目を丸くしたグリーンの表情に、よくよく見なければ気づけないようなほんの少しの嬉しさが混じっていたことのほうが、レッドにとっては重要だ。
「……なにやってんの、おまえ」
「誘拐しにきた」
「は?」
「誰を」
「グリーンを」
「へ?」
いつも通り、言いたいことだけ言ってまともに説明もしなかったが、グリーンはちゃんと相手をしてくれた。そのことに、レッドは気をよくする。
さすがにグリーンにも意味は理解できなかったのか解説を求められたが、そんなもの突き詰めてしまえば、ただ一緒にいたかっただけだ。その他の事情なんかすべて無視して、レッドのことを優先して欲しかっただけ。
遠回しにそれを伝えられるような話術は身につけていなかったから、そのまま素直に口にした。
そんなレッドの本音が、正しく伝わったとは思えない。グリーンは呆れたように「もう少し、わかりやすい言葉しゃべれよな……」とため息こそついたものの、深く追求してはこなかった。
前後が繋がっていない、思考の海から無造作に掴み出して突きつけただけのレッドの言葉を、真っ向から受け止めてくれる人はそう多くない。おそらくは家族である母親と、あとは付き合いの長いグリーンとナナミの姉弟くらいだ。
グリーンはなんだかんだと文句を言いながらも、理解しようとしてくれる。
そして不思議なことに、どういう経路をたどっているのかはわからないが、最終的には言葉がまったく足りなくてほとんど伝わっていないはずのレッドの望みを、大体は叶えてくれた。
この日も、そうだ。
なぜ『誘拐』などという物騒な単語が出てきたか、きっとグリーンはその理由に気づいていない。でも、グリーンは当然のように、レッドを自分の家に誘った。年越しは、レッドの母親も一緒だから、と。
何年も会っていない母親と予想外に遭遇することになりそうなことについては少しばかり動揺もしたが、べつに会いたくないわけではないので特に気にはしなかった。母の顔を見たら少しだけ決心が揺らぎそうな気もしたものの、今はもうそこまで切実でもない。
レッドが本当の意味で越えたかったものは、もう越えたのだ。シロガネ山にこもっていた原因は、解決した。あの山は修行に最適だからまだしばらくいるつもりだが、居続けなければならないという強迫観念はもうない。ただ、母親と会うのはあまりに久しぶりすぎて、少し気恥ずかしいだけだ。
そんなことより、グリーンがレッドの腕を掴んだまま離さないことのほうに意識がいっていた、というのが正直なところだった。しばらくそのままだったところを見ると、前言撤回して逃げ出すとでも思われたのかもしれない。
(そんなこと、しないのに)
でも、嬉しかった。逃げ出すかもしれないレッドを、引き止めようとしてくれたことが。
信用されていないだけだと言われてしまえばそれまでだが、それに関しては言い訳するつもりもない。というか、今までの言動を振り返れば、言い訳の余地がない。
グリーンは、いつだってレッドのことを気にかけてくれている。3年前はそんな簡単なことすら察することができなかったが、再会してからはさすがにわかるようになった。出会い頭に手加減なしで殴られたのだって、それだけグリーンがレッドのことを自分の中に置いていてくれた、という証だ。グリーンはどうでもいい相手に、そんな労力を使おうとはしない。それがわかったから拳を避けることもしなかったし、逆にそれすら嬉しかった。
レッドが自身の感情に気がついたのはほんの数時間前だったけど、それは自覚したのがたまたま今日だっただけで、その感情自体はかなり年季の入ったものだ。
ずっと抱えていた感情にひとつの名前がついたことで、それはそれなりに納得して落ち着いた。会いたい衝動は堪えることができなかったが、ただ会えるだけでよかった。
まだ、レッドとグリーンが旅に出る前、まるで家族のように過ごしていた時のように、家族だけの時間を過ごせるのなら、それでよかったはずだった。
そのはず、だった。
――その時、までは。