はじまりの色

3


その日、レッドの機嫌はかなりいい方だったと、グリーンは認識している。

それまで頑として自宅には帰りたがらなかったくせに、その自宅にいるはずの母親と対面することになると判明しても、逃げ出したりはしなかった。それでも、やはり自宅には足を踏み入れようとはしなかったのだが。
それでもグリーンの家で、自身の母親と穏やかな再会の時を迎えていた。懐かしそうに笑いあう母親と息子の光景は、とてもじゃないが3年以上も顔を合わせていない者同士が醸し出す雰囲気には見えなかったと、グリーンは思う。
3年も連絡ひとつ寄越さないまま悠然としているレッドも相当面の皮が厚いが、心配でたまらなかっただろうにあくまでも穏やかに優しく我が子の帰還を迎えたお隣のおばさんも、相当懐が広い。というか、図太い。

「あらまあ、そうなの。グリーンくんが面倒見てくれてるなら、安心ね」

レッドに現在進行形でシロガネ山で寝起きしていること、たまにグリーンがそこに顔を出していることを告げられたレッドの母親は、満面の笑顔でそう宣言していた。一瞬だけグリーンは耳を疑ったが、本気でそう信じているようだったので、あえてなにも言っていない。
正確には、ツッコミを入れられなかった。当のレッドが、神妙な顔で肯定していたからだ。

(つーか、レッドもうなずいてんじゃねえよ)

まさか、本気でグリーンに面倒を見られているなど、思ってもいないだろうに。
実際、グリーンはレッドの面倒を見ているつもりはなかった。大体、レッドは今までずっとあの極寒の地で、たったひとりで暮らしてきたのだ。面倒を見てやらなければならない必要などない。
グリーンがシロガネ山に登る理由は、たったひとつ。そうしたいからだ。
人が住む環境ではない場所に根を下ろしている幼なじみのことを思えば、心配になる。顔を見れば安心するし、少しでも物資を持ち込んでおけばグリーン自身が安心できるから、いろいろと必要そうなものを抱えて行く。そして、行けばジム戦では絶対に味わえない緊迫感に満ちたバトルまで楽しめる。
しょっちゅう顔を出す理由なんてただそれだけであって、レッドのためというよりはどこまでも自分自身のためだった。なのに、その行動をそんな風に評されると、なんだかしっくりこなくてむずがゆい。

「これからもよろしくね」

だが、レッドがいない間もずっと彼の母親の姿を見てきたグリーンとしては、やっと安堵の表情を浮かべるようになった彼女に向かってそんなことも言えず、顔に少しだけ引きつった笑みを張り付けて、とりあえず肯定の意を返しておいた。その程度で安心してくれるならお安いご用だし、これからはレッドの様子を逐一報告することだって可能だ。グリーンは彼女に信頼されていたから、そのグリーンからまめに報告があればやはり安心できるだろう。

(もしかして、それを狙ってんのか?)

レッドのことだから、ありえなくもなかった。べつに、率先して心配をかけたいわけでもないはずだ。
そう思えば、そこでいちいち否と声をあげるのもバカバカしい。それに、この面子で家族団らんを過ごすのは、本当に久しぶりだった。その時間を、大切にしたかったのだ。きっとそれは、グリーンもレッドも、グリーンの姉のナナミもレッドの母も、あの場にいた全員が思っていたことだろう。

だから、いつもなら笑顔で禁止されるはずのアルコールが、他でもないナナミの手に寄ってグリーンたちにまで振る舞われたことも納得できた。そんなに強くないから1杯くらいなら大丈夫と笑っていたが、日頃はそれすらも許されない。ナナミも浮かれていたし、それを止めなかったレッドの母もきっと似たようなものだ。
当然、そんなチャンスを逃すわけもない。グリーンもレッドもグラス1杯ずつ酒のご相伴に預かって、少しだけふわふわした気分のまま真夜中過ぎに自室へと引っ込んだのだった。もちろん、グリーンの部屋だ。相変わらず、レッドは自宅に帰ろうとはしなかったし、レッドの母もそれを気にしてはいないようだった。

「この親不孝ものー」
「いまさら」
「だよな」

初めて口にしたアルコールは、予想以上に効果があったらしい。もう、今さら客用布団を運び込んで床に敷くのも面倒だ。そう判断し、グリーンとレッドは同じベッドに潜り込む。
さすがに少々手狭だったが、そんなことはどうでもよかった。幸い、ふたりともそこまで寝相が悪いわけでもない。

「あー、風呂入んのわすれた……」
「そういえば」
「つか、初日の出見たいよな」
「起きられたらね」
「起きるだろ、絶対」
「ふーん」
「ま、いーわ……も、なんでもいい……ねみぃ……」
「おやすみ、グリーン」
「おー」

そんなどうでもいい話をしながら、年を越した夜は更けていく。
この分だと、とてもじゃないが初日の出は見れそうもなかった。



「ってええええええ、昇りきってるし!」
「おはよ、グリーン」
「あー、おはよ……じゃ、ねえ!」
「なんで?」

グリーンが目が覚ました時、すでに日は高く昇っていた。
深夜1時過ぎてからベッドに入って、初日の出の時間までに起きる。常日頃から多忙を極めているトキワのジムリーダーは、決して寝汚いほうではない。目覚まし時計のアラームさえきちんとセットしていれば、よほど無茶な時間設定ではない限り目が覚める。
普段なら、5時間も睡眠時間を確保できれば十分だ。カントー地方は今の時期日が短く、日の出は朝の7時近くなる。朝6時に目を覚ませば、ポケモンの「そらをとぶ」を使って少し遠出をしても、日の出には間に合うはずだった。
もちろんそれは、きちんとその時間に起きるための準備をしていた場合に限る。

「初日の出見損ねたじゃねーか、バカレッド!」
「僕のせいじゃないし」

昨夜、アルコールが入っていい感じに頭が回っていなかったグリーンは、当然のように目覚ましをセットし忘れていた。そして、それをレッドが指摘するはずもない。
年末最終日まで仕事に追われていたグリーンには、寝不足による疲労が積み重なっていた。きっかけなしで早起きできる要素なんて、最初からないのだ。
日頃は山の上で日の出と共に起き日の入りと共に寝るような生活を送っているレッドも、こうやって地上に戻ってくれば比較的普通の生活サイクルに戻る。寝たのが遅かったこともあって、さすがに日の出と共に起きる、という芸当はできなかったらしい。
それでもグリーンが目を覚ましたときには、すでにベッドの上に上半身を起こしてあくびをかみ殺していた。たとえ数分の差とはいえ、先を越されたことが少しだけ恨めしい。
こんなどうでもいいことでも張り合おうとする自分自身が、つくづくどうしようもない。

「でも、グリーンがこだわるとかめずらしいね。初日の出とか、今まで見たがったことあったっけ?」
「ない、と思う。けど」
「どういう心境の変化?」
「いーじゃん、なんでも」

貸していた寝間着代わりのスウェットからいつもの普段着へと着替えながら、レッドが不思議そうに首を傾げている。ごそごそとベッドから抜け出そうとしていた時にその問いかけを耳にして、グリーンは微妙にレッドから視線を逸らした。
なんというか、あまりそこを追求して欲しくない。

(べつに、どーしても見たかったわけじゃねえけど)

ただ、なんとなく特別なことがしてみたくなっただけだ。数年ぶりにレッドと迎えた、新年の朝だったから。
――もう、すでに昼近いのだけど。

(酒飲んだのが敗因か……っ)

とはいえ、嬉々としてナナミの提案に飛びついたのは、他の誰でもないグリーンだ。確かに誰も止めなかったが、それどころか煽ってくれたが、そこに責任を押しつけるわけにはいかない。

(ま、来年があるさ)

自分に、そう言い聞かせる。べつに初日の出は逃げたりしない。レッドが山を下りてこない可能性は、多々あれども、だ。
いざとなったら、来年はグリーンのほうからシロガネ山へと押し掛ければいい。はたして、毎日のように吹雪いているあの山頂で、初日の出が見られるかどうかは謎だが。
――ひとまず、頓挫した計画は来年に回すとして。
他に何かないかと考えを巡らせたグリーンは、ひとつ心当たりを思い出した。
正直、あまりレッド向けではないが、背に腹は代えられない。ダメ元で、提案してみることにする。

「つーわけで、初日の出見らんなかったから新年のお祭り行こうぜ」
「お祭り?」

そうしたら、突然の話題の転換についていけなかったらしいレッドがふたたび首を傾げた。
気づけば、レッドはもう完全に身支度を終えている。帽子とリュックは床に放り出されたままだったが、あとはそれを身につけるだけで完了だ。相変わらず半袖なあたりめまいがするが、外に出るときに無理矢理コートでも着せればいい。

(問題は、こいつが乗ってくるかだよな)

新年の最初の日、海に臨むクチバシティでは毎年のように新年を祝う祭りが開かれる。そこまで大がかりなものではないが、この時期はデパートも休みになるし他に暇をつぶせるような娯楽も少ないため、けっこう遊びに行く人も多かった。
レッドはべつに、祭り事が嫌いなわけではない。どちらかといえば好きなほうだろう。レッドがイベントに疎いのは、雪山にこもって仙人のような生活を送っているせいでカレンダーを確認するという習慣が抜け落ちているせいだ。
ただ、とにかく人混みを嫌う。人間嫌いというわけでもないし、騒音が嫌いなわけでもないらしいが、人のいない場所に長くいすぎたせいなのかもしれない。
だから、あまり期待はしていなかった。ただ、却下されたとしてもいつまでも寝間着のままでいるわけにはいかないので、クローゼットから着替えを取り出す。
レッドは半袖姿だが、まっとうな感覚を持っているグリーンはさすがにそういうわけにもいかない。どう考えても長袖の重ね着が必要だと思いながら寝間着を脱ぎ捨てれば、背後からのんびりとしたレッドの声が聞こえてきた。

「いいけど。クチバの?」
「そーだけど……って、え、マジでいいの」
「うん」

思わず、上半身裸のまま振り返った。視線の先には、穏やかな表情を浮かべたレッドがいる。
予想外の展開に、どんな反応を返せばいいのかよくわからない。喜ばしいことなのは、とりあえず間違いないはずだ。たぶん。

(クリスマスんときはあんなに苦労させられたっつーに、どんな心境の変化だよ?)

なにがレッドに変化をもたらしたのかは謎だが、ポケモンバトル以外でこんなにすんなりとグリーンの提案を受け入れてもらえることは、あまり多くない。
やはり、この機会は逃さないでおくべきだろう。昨日から引き続き、レッドの機嫌はかなりいいようだ。
そう思えば、グリーンの心も自然と浮き立つ。引っ張り出した服に着替えながら、グリーンは今日の予定を頭の中で組み立てていった。
そのうちに、なんとなく気持ちが優しくなっていく。そのせいかもしれない。
ふと、後輩の姿が脳裏に浮かぶ。

「んじゃ、ヒビキたちにも声かけるか」

その言葉は悩むまでもなく、するりと口から出ていた。
ヒビキは、ずっと勝ち続けていたレッドを初めて負かしたトレーナーだ。ヒビキに負けたからこそ、レッドはずっと意地でも動こうとしなかったシロガネ山から、時々とはいえ下りてくるようになった。ヒビキがレッドに勝ったからこそ、グリーンはレッドとふたたび会うことができた。
これ以上ないくらい真剣な顔で、どうしても勝ちたい相手がいるから修行に付き合って欲しいと頭を下げにきたヒビキの姿は、きっと一生忘れられない。その相手がレッドだなんて、その時は露ほども思わなかった。
レッドを山から引きずり下ろすきっかけを作ってくれたヒビキのことを、グリーンはけっこう気に入っている。グリーン自身がきっかけを作れなかったことは悔しいと思うし、自分以外に負けたレッドに文句を言いたい気持ちも未だにあるが、それはもう口に出してしまったのでさほどこだわりもない。大体、ヒビキが悪いわけでもなんでもなかった。単に、トレーナーとしてのグリーンの力が及ばなかっただけだ。
レッドと再会する前であれば、もうレッドのライバルはヒビキであってグリーンではないのだとすべてを諦めたかもしれないが、そうではないことも今はもう知っている。
たとえ何があっても、互いのライバルは互いだけだ。それをもう、グリーンは疑っていない。
そして、はっきりと口には出さないものの、レッドがヒビキのことを気に入っていることも知っている。それはそうだろう、考えてみれば当たり前だ。ヒビキはレッドを唯一負かしたトレーナーであり、強さを求めて山ごもりをしていたような人間が、自分に勝てる存在をあっさり忘れるはずもない。
だから、軽い気持ちだった。
いつものようにジムやグリーンの部屋でだらだらするわけでもないし、せっかく遊びに行くのだから気心が知れた奴なら呼んでもいいだろう。ヒビキもジョウト地方出身だから、クチバの新年祭のことは知らないはずだ。
そう思っただけ、だったのに。

「……なんで」
「へ」

突然、だった。
レッドの身にまとう雰囲気が、がらりと変わったのは。

「なんでヒビキたちに声、かけるの」
「なんでって……おまえ、ヒビキのことけっこう気に入ってただろ」

先ほどまでの穏やかな空気は、幻覚だったのかもしれない。そうとしか思えないほど、レッドの顔から穏やかな表情が抜け落ちる。
かわりに浮かんだのは、不機嫌としか表現しようのないしかめっ面だ。なぜそんな反応が返ってくるのか、グリーンにはまったくわからない。理解、できない。
ただ、気のせいか。
――どこか、この反応に既視感がある気もした。

「あいつもレッドに懐いてるし、どーせなら一緒にって思ってだな……」
「……やっぱり、やだ。行かない」
「ちょ」

しかも、あっさりと前言撤回される。そのまま、レッドはぷいとそっぽを向いてしまった。
どう見ても、機嫌を損ねている。怒っている……というよりは、拗ねている。
理由なんて、グリーンにわかるはずもなかった。

「んだよ、やっぱ人混みイヤなのか?」
「…………」

返事はない。もちろん、機嫌を直す様子もない。

「もしかして、外出るの面倒になったとか?」
「…………」

しかも、視線を明後日の方向に向けたまま、ぴくりとも動かない。フローリングの床に敷かれたカーペットにあぐらをかいて座り込むレッドは、不機嫌さを隠そうともせずに口を尖らせていた。

「おーい、レッド。急にどうしたんだよ」
「…………」
「何が気にくわないんだっつの」

当然のように、返事はない。だが、そこでようやくグリーンは気づいた。
既視感の、正体に。

(クリスマスんときだ)

あの時も、レッドは妙にへそを曲げていた。最終的には機嫌よく笑っていたが、なぜレッドがあそこまで機嫌を損ねたのか、未だにグリーンはわかっていない。
話を持ちかけた最初のあたりは、けっこう乗り気なように見えたのに。話が進むにつれて、急激にレッドが放つ気配は冷えたものになっていった。
過程としては、大体今日と同じだ。だが、レッドがどこに引っかかっているのか理解できていないグリーンには、それを回避することができない。

「なあ、レッド」

懇願するように名前を呼べば、ゆっくりとレッドがこちらを向く。
その顔には、表情がないわけではない。ただ、あきらかに拗ねていた。
恨めしげに、しかも上目遣いで睨みつけられて、ぎくりと全身を震わせる。まったくの無表情で底冷えするような冷たい気配をまき散らしているわけではなく、まだ感情が表に出ている分マシなのかもしれない。
そうは思うものの、グリーンの頭に打開策など浮かぶわけもなくて。

(どーしろって……)

思わずため息をつきかけた、その時。

「……はぁ」

ふいに、レッドが詰めていた息を吐いた。

「れ、レッド?」
「ねえ、グリーン」
「な……ん、だよ?」

そして、またしてもレッドの表情が変わる。今度は、びっくりするくらい真顔だった。
無表情とは違う。何か強い決意が、見上げてくるレッドの瞳に宿っている。
思わず、気圧される。理由なんてわからない。
ただ、レッドが真剣なことだけは理解できた。

「クリスマスのときのこと、覚えてる?」
「あ? おまえがさんざんごねた時のアレなら、そりゃ覚えてるよ」

先刻、あまりに似ているこの状況のせいで、嫌でも思い出さなければいけないハメに陥っていたところだ。
とはいえ、思い出したところで解決策は浮かばなかった。大体、あの時はどうやってレッドの機嫌を浮上させたのだったか。

(…………あ)

そして――よけいなことまで、思い出した。
しかも、だ。

「あの時、言ったよね?」
「何を」
「僕の希望、なんでも聞いてくれるって」
「……あー、うん、まー、言ったな」

そこに行き着いたのは、グリーンだけではなかったらしい。
つい、反射的にレッドから目を逸らしてしまったが、視界の隅にひっかかってしまった。

「じゃあ、その権利、使わせてもらおうかな」

ほんの少しだけ、見慣れていなければ判別できない程度に、レッドの口角が上がる。
……笑っているのだ。なぜか、今、ここで。
先刻まで、あれほど不機嫌そうだったというのに。

「えっ。……今?」
「そう、今」

正直なところ、嫌な予感しかしない。
まさか、レッドの機嫌が突然直ったとも思えない。どう考えても不機嫌で、しかも今その約束を持ち出してきたということは、かなりの確率で理不尽な八つ当たりに消費されるということだ。
グリーンは、それを断る権利を持たない。約束だから。
……諦めて腹をくくるしか、なさそうだ。

「……俺のできることにしといてくれよ」
「もちろん」

にこりと笑われて、ますますグリーンの顔が引きつる。今、この状況でこんなにわかりやすく笑顔を向けられるなんて、ありえない。
近寄ったら凍傷にでもなりそうな不機嫌全開オーラを放たれでもしたほうが、まだ対処のしようがある気がしてきた。
今、この状態では、まったくもって動けない。まるで死刑宣告を待つ罪人のような気分で、グリーンはうなだれる。
……そんな針のむしろのような時間も、そう長くは続かなかった。
執行人が、あっさりと最後通牒を突き付けたからだ。

「僕と一緒にいる時は、僕以外の人のこと、考えないで。見ないで」

――しかも。
まるっきり、予想からはかけ離れた方向へ。