「……あさって?」

 普通の声を出すことがこんなに難しいなんて、今まで一度も思ったことはなかった。
 日頃、そんな努力をする必要はない。もともとクールと表現すれば聞こえはいいが、無愛想と言われ続けていたこともあるし、たまに感情を爆発させたくなってもそれを自重しなければならない時なんてなかった。

 でも。
 今は、その時ではない。

 少しさみしがるくらいなら、きっと許される。それくらいであれば違和感なく受け止めてもらえる程度には、近づけたはずだ。
 でも、まさかそれ以上のことはできない。あまりにも、不自然すぎる。

 もう何歳か年下であれば泣いてごねることもできるし、逆にもう何歳か年上であれば彼を上手に言いくるめる方法を見出せたかもしれないけど。
 あいにく佳主馬はまだ十三歳で、そのどちらの手段も使えなかった。

「そう、明後日。来週の中頃から、夏希先輩の夏期講習が始まるんだって」

 納戸の中、文机の上に置かれたノートパソコンの前。いつも通り立て膝をついてそこに座っていた佳主馬の横に、これまたいつもどおりに正座をしている健二がいる。
 細心の注意を払って、ごく自然に見えるように首を巡らせれば、視線の先には相変わらず気の抜けるような健二の笑顔があった。

「健二さんは関係ないんじゃないの」
「それはそうなんだけど。でも、夏希先輩が帰るのに僕が残ってるわけにもいかないし、OZのバイトにもそろそろ戻らなくちゃだしね。宿題も全然やってないし」

 OZのバイトなんて、ここからやればいい。何度もそう思ったし、それを口にもした。
 ただ、アルバイトの権限として管理棟にまで入ることができていたアカウントはラブマシーン騒動で悪名ばかりが轟いてしまい、だからといって急場しのぎで使っていたゲストアカウントには権限などなにもなくて、とりあえずは旧アカウントからゲストアカウントへとすべての権限を譲渡完了するまで、なにもできなかったのだ。

「……アカウント移行の手続き、終わったんだ」
「ああ、うん。なんせあのアカウント、ここの電話で取ったやつだったしさ。でも、もう移行手続きはちゃんと全部終わったよ」
「ふうん……」

 少なくとも、あのぶさいくなリスのアバターが消滅してしまうことはない。それが明確になっただけでも、喜ぶべきなのか。
 ──だって、佳主馬が知っている健二のアバターは、あの黄色いリスだけだ。それ以外を認めなければならなくなったとしたら、きっとおそろしく時間がかかる。
 あのリスは、佳主馬の大切な相棒であるキング・カズマを、何度も助けてくれた恩人なのだから。

「宿題、持ってきとけばよかったのに」
「いやあ……さすがに、こんなに長くいることになるとは思わなかったからなあ」
「……侘助おじさんに英語とか、教えてもらえたよ、きっと」
「う、それは惜しいことしたかな」

 そこで侘助の名前を使わなければいけないのは少々悔しいが、効果があるのはたしかだったから躊躇なんかしてられない。
 学生の本分は、勉強。だから、理由としては絶大な効果を持つ。
 何度も健二に「数学教えて」という切り札を使った佳主馬だからこそ、痛感していることだ。

「ねえ、健二さん。ほんとに、帰るの」

 おさえていたつもりだったけど、少しだけ本音がもれた。

「うん。えーと、明後日のお昼の新幹線って言ってたかな?」

 でも、幸い健二はそれに気づかなかったようだ。首を傾げて天井を見上げて、おそらくは夏希に告げられた予定を思い出そうとしている。

 いつかこの日がやってくることは、最初からわかっていた。
 ずっと、ここにいられるはずがない。本来はたった四日間だった滞在予定を、なんやかんやで引き延ばしてくれたのだ。それは純粋な好意であったり、子どもたちのわがままだったり、子どもたちの親の打算だったり、いろいろな事情が絡んだ結果ではあったけど。

 だから、必ずこの日が来るのはわかっていた。佳主馬だって、永遠にここへいられるわけがない。あと二週間と少しもすれば、学校が始まる。それまでには、名古屋へ帰らなければならない。
 それと同じ、に。
 高校生である健二が東京へ帰る日だって、当然やってくるのだ。

「楽しかったけど、仕方ないよね。それに、よく考えたらもう二週間以上もここでお世話になってたわけだしなあ……あはは、名残惜しいなあ」

 ただ。
 そんな日がくることを、佳主馬が忘れていたかっただけで。

 八月十四日、お盆目前の日。
 午後四時まで、あと二分。


ワールドクロック


03

「健二さん、こっち」

 宵闇の中、手を伸ばす。促されてもなかなかふんぎりがつかないらしい年上のその人は、差し出された手を掴んでいいのかどうかすら判断がつかないようだった。

 たしかにこの屋敷は古いが、造りはなかなか頑丈だ。そうでなければ、あのあらわしが落ちてきたときの衝撃で、それこそ根こそぎ吹っ飛んでいただろう。
 半壊ですんだのは、古いがゆえにしっかりとていねいに造られていた証なのだと、佳主馬は思っている。

「ほ、ほんとにいいの?」
「大丈夫だって」

 まあ、母である聖美や当主である万里子にバレたら、軽く説経はされるかもしれない。だが、そもそもこの楽しみ方を佳主馬に教えてくれたのは、今は亡き栄だ。
 大きな音を立てたら皆を起こしてしまうかもしれないから、くれぐれも静かに。ついでに、落ちたりしたら大騒ぎになるから、そこも気をつけること。自分のやったことには、責任を持つように。栄に注意されたことは、その三つだけだ。

「そ、それじゃ……う、うわわ」

 やっと覚悟を決めたのか、健二が窓を越えて伸ばされた佳主馬の手を掴む。
 そのまま、窓枠を乗り越えて──瓦へと足が着くと同時に、また情けない悲鳴があがった。

「落ち着きなよ。べつに、屋根が抜けたりしないから」
「そ、そそ、それはわかってるんだけど」

 健二は、佳主馬から見ても明らかに都会っ子だ。屋根の上に登った経験なんて、まあないだろうとは思っていた。
 その予想通りとしか言い様のないおっかなびっくりの反応に、佳主馬は少しだけ健二の手を掴む力を強くする。

 ──少なくとも、足を滑らせてひとりで屋根から落ちる心配がないとわかれば、少しは気も紛れるだろう。

「……少しは落ち着いた?」
「う、うん……ご、ごめんね。見たいって言ったのは僕なのに、なんかもうさっきから緊張してて」
「べつに。そっちより、こっちのほうが屋根、まっすぐだから」
「あ、うん」

 どうひいき目に見ても落ち着いていない健二の腕を引いて、佳主馬は少しだけ屋根の上を歩く。そろそろとついてくる健二は、めずらしく裸足だ。靴下をはいたまま屋根の上を歩くのはさすがに滑りやすくて危険なので、あらかじめ佳主馬が脱いでおくよう指示しておいたのだけど。

「このへん。寝っ転がってみて」
「あ、うん」

 健二がなんとかたどり着いたことを確認してから、佳主馬は屋根の傾斜がいちばん少ない場所を指し示す。あらわし落下とともにふっとんだ屋根の瓦はもうすでに大半が直されていたが、このあたりはかろうじて被害を免れたあたりで、瓦も古いままだ。

 屋根の上に座り込んで手を繋いだまま、健二が仰向けに横になるのを見届ける。そして。

「……って、ええっ、うわあ……!」

 その歓声を耳にしてから、佳主馬も屋根の上にごろりと寝っ転がった。
 健二が歓声を上げた理由なんて、最初からわかっている。何度目にしても見慣れてしまうことなどない、その光景。

 ──視界を埋め尽くす、漆黒の闇に広がる満点の星。
 じっと目をこらせば、瞬く星々の間に光の尾を引いて、流れていく軌跡が見える。

「ペルセウス座の流星群、今日がいちばん見えるって」
「そうなんだ!? わあ……すごいな……!」

 じつは佳主馬がその名前を知ったのは、つい先刻だ。
 夏、上田に来たときに見ることができていた流星群を、もしかしたら健二にも見せることができるかもしれないと思い立って。ネットで調べてみたら、たまたま今日がいちばんよく見える日だと知った。
 偶然といえば、この上ない偶然だ。明け方のほうがよく見えると見つけたページには書いてあったので、熟睡していた健二を叩き起こしてここまで連れてきたのだった。

 この家で、いちばんよく星が見える場所。それは、二階の窓からこっそりと出られる、屋根の上。
 その場所を佳主馬に教えてくれたのは、栄だった。
 ──栄に認められた健二になら、教えてもいいはずだ。
 否、知っていてほしかった。他でもない、佳主馬自身が。

「……これって、毎年見えるらしいよ」
「え、そうなの?」

 屋根から落ちる心配はないとわかってはいても、心細いのだろうか。それとも、満天の星空と流星群に夢中で、そこまで気が回っていないのか。
 未だに佳主馬の手を握ったままの健二が、佳主馬のほうを見て目を瞬かせていた。

 こっち見てたら流れ星を見逃すよ、とは言わない。言えない。
 四歳も年上だというのに、子どものように目を輝かせて佳主馬の言葉に耳を傾けてくれる健二の存在そのものが、佳主馬の心に食い込んでもう離れない。

「毎年、この時期に見えるって言ってた」
「へええ……そうなんだ。じゃあ、来年も見られるといいなあ」

 しかも、そんなことを言ってくれるのだ。もちろん、無意識なのだろうけど。
 だから。

「……見に来て、くれる?」
「え?」

 覚悟を決めて。
 そう、問いかけた。

「来年も、来てくれる?」

 どちらかといえば、問いかけというよりは確認。
 念を押しておきたかった。佳主馬がなにも言わなかったとしても、おそらくは来年も夏希が無理矢理にでも引っ張ってきてはくれるだろうけど。

 でも、それは夏希の手柄。そして、夏希の影響。
 佳主馬の力では、ない。
 そんな、自己満足から出た言葉ではあったけど。

「……う、うん! 来てもいいなら、もちろん!」

 でも、健二が闇の中、嬉しそうに笑ったように見えたから。
 佳主馬も口の端を上げて、口元に笑みを掃いた。

「来ていいなんて、あたりまえじゃん。みんな、そのつもりだし」
「え、そ、それなら……うれしい、けど」
「逆に、こなかったら文句言われるよ」
「ええっ……あはは」

 (ま、それだけで終わらせるつもりもないけどね)

 まさか来年の夏まで会わないでいるなど、そんな選択肢はない。
 でも、明日には東京に帰ってしまう健二に、少しでも佳主馬自身を印象づけておきたかったから。

 ──気づかれない程度に、掴んだままの手に力を込める。
 とりあえず、は。この繋がりを、断ち切らないことだ。
 ちゃんと、連絡先も手に入れたのだから。

「あきらめないから、僕」
「へ?」
「こっちの話」

 前途は多難すぎる。でも、負けるつもりはない。
 悔やむのは、後でいい。やらずに後悔するよりは、やって後悔する道を選ぶ。

(なんせ、思春期だから)

 ある意味、怖いものなんてなかった。
 健二に嫌われること以外は、なにも。


 八月十三日、午前三時五分。
 健二が東京へ帰る、前日のこと。




健二帰宅直前の話。
このあと大あわてで、佳主馬は携帯を充電するんだと思われる。
もちろん、健二が新幹線に乗る時間に間に合うように。

あと1回くらい、夏休み中の話になる気がします。
次はたぶん健二視点です。

なお、2010年8月13日未明にはほんとにペルセウス座流星群が極大になるそうです。夜中はあんまりだそうですが、明け方前だと1時間に50個から60個見えるとのこと。
今から覚えとこっと(忘れそう)。