続・1度目の夏
前編
久遠寺高校物理部の部室に、エアコンなんてそんな高級かつ洒落たものは存在しない。
4台あるデスクトップ型のパソコンとそれぞれに繋がれた3台の液晶ディスプレイ、さらに佐久間が持ち込んだノートパソコン。これら4台の熱源に加えて、 36度ちょいの熱を内包する育ち盛り──のはずの高校生男子2名が居座っているこの空間にこもる熱量ときたら、いかほどのものか。
少なくとも、申し訳程度に空気をかき混ぜる小型の扇風機が、ものの役に立っていないことは確かだ。
「あっちいなー」
そんなことを言ったところで暑さが紛れるわけでもないのだが、そういったことは無意識のうちについ口をついて出るというもので。
さすがに、その呟きに文句を言う気にもなれない。大体、そんなことを言いながらも、この親友は夏休みの大半をこの部室で過ごしているのだ。
「あっついね」
右手をうちわがわりにして仰いでみたものの、さすがにほとんど風らしき風は生まれない。仕方がないので、そのへんに放ってあった薄っぺらい雑誌にご登場を願った。……右手よりは、役に立ちそうだ。
「なんかさ。ここ最近、扇風機の勢い弱くなってない?」
扇風機は一応、ふたりの背後で弱々しく首を振っている。ただ、あまりにも室温が高くなりすぎて、すでに温風をゆるゆると吹き付けるだけの、微妙なシロモノに成り果てていた。
「あー、安かったしな、コイツ。そろそろ寿命かね?」
椅子の背を鳴らして、佐久間が後ろを振り向く。途端に温い風を顔面に吹き付けられることになったらしく、微妙に顔をしかめた。
健二にも、その気持ちはわかる。冷たい風ならまだしも、温い風の直撃はなんとも言い難い感覚を呼び起こすもので。
エアコンなんて、ぜいたくなことは言わない。せめて、冷風機が欲しい。
「でもなあ。そんな予算あったら、たぶんPCパーツに化けるよなあ……」
「あん? なんの話?」
手を休めて扇風機とにらめっこしていた佐久間が、健二の呟きに反応して椅子の背にあごを乗せたまま視線を寄越した。
ちなみに、今日も今日とてOZ保守点検のバイト中だ。
いろいろと想像しがたいトラブルはあったものの、健二も結局またバイトに復帰できた。それはおそらく、末端の末端の末端とはいえ一応バイトグループのチーフを務めている佐久間のおかげだろう。冤罪だったとはいえ、OZの中枢を乗っ取った犯人扱いされたユーザーをもう一度管理棟にバイトとして入れるのは、OZ側としてもかなり勇気がいる決断だったのではないかと、健二は思っている。最後の一文字が間違っていたとはいえ、OZのセキュリティロックも解きかけてしまった前科もあることだし。
(まあ、権限全部移したけど、一応別のアカウントだから平気なのかな?)
もっともこのアカウントでも、緊急事態だったとはいえ何回か管理棟のパスワードは解いてしまった。あの時はまだラブマシーンにOZの権限そのものを乗っ取られていたから、どさくさに紛れて問題にはされていないのかもしれなかったが。
とにかく、そんな健二がこうやってOZでまたバイトをすることができるのは、確実に佐久間がいろいろと手を回してくれた結果だろう。
そんな友達想いの佐久間が、物理部部長として部費をPCパーツの強化につぎ込むことに関して文句をつけようと思ったことは、一度もない。
「んー、べつになんでも。佐久間、サボるなって怒られてるよ」
「ちぇ。あーもー、少しくらい休ませろよなー」
まあ、そんな佐久間もチーフとはいえ、やはり末端の末端の末端だ。末端あたりにいる上司からせっつかれれば、当然反論なんでできやしない。
結局はブツブツと文句を吐きながらディスプレイへと向き直った佐久間に、健二はなだめるような苦い笑みを向けた。
「あとちょっとだって。もうすぐ昼休みだからさ」
「へいへい」
そして無駄口を叩きながらでも、途中でサボリながらだろうとも、やはり健二より佐久間のほうが手際もよければ作業スピードも速い。
佐久間が暑さに文句をつけている間に追い越していたはずの作業量をあっという間に抜き返されて、健二は作業の手を止めないまま弱々しい笑みを浮かべた。
(ほんと、佐久間って規格外だよなあ)
考えてみれば、佐久間だけではない。健二の周りには、なんだかんだであまり普通ではない才能を持つ人間がいる。
幸いというかなんというか、それに引け目を感じて卑屈になるには、あまりにその人数が多すぎた。自分に自信なぞないが、だからといってそこでうずくまってのの字を書いてはいられない。そんなことができるほど、健二は周りを見る目がないわけではないのだ。
だから唯一の取り柄である数学くらいは、誰にでも誇れるレベルを保っておきたい。それは夏のあの日から、健二がより強く心に思うようになったことだ。
できることなら、その隣に並んで立ちたいから。
──誰の?
(……えっと?)
「お、チャイム鳴った」
一瞬、自分では見えない思考の穴に落ちかけた健二を現実へと戻したのは、12時を告げるチャイムと佐久間の声だ。
「あ……昼休みか」
そういえば先ほど健二自身が、もうすぐ昼休みだと言っていたはずで。ほんの瞬間とはいえ、それすら忘れるほどに何かを深く考えようとしていた自分に、健二は少し呆れる。
「んー……っ、あー、疲れた」
背を丸めて、あまり行儀がいいとは言えない姿勢でディスプレイとにらめっこをしていたせいか、首や背中が痛い。思いっきり伸びをして凝り固まった乏しい筋肉を動かしてみれば、予想以上に心地良かった。
そして緊張がほぐれれば、次は年頃らしく空腹が気になるわけで。
「佐久間ー、昼飯どうする?」
「学食、混んでるしな。コンビニでも行くか」
「そーだなー」
お盆明けの高校は、意外と混み合っている。
部活動は夏休み突入直後から活発に行われているし、今日からは受験を目前に控えた3年生向けの夏期講習なんてものまで始まった。夏休みともなれば、日頃は弁当持参の学生たちも学食やコンビニで済ますことも多い。親だって、少しくらいは夏休みを満喫したいものだ。
健二と佐久間はもともと学食や売店派だが、夏休み中は通常時よりも学食が混んでしまう上に売店が休みになるので、コンビニへ出向くことが多い。
コンビニで弁当やパンを買ってきて、それをこの熱気を発散しきれていない暑い部室で食べる。
冷静に考えれば苦行のような気もしてくるが、慣れてしまえばそれなりに快適なことで。
(あー、でも、手料理食べたいな)
それは、夏休み前にはあまり思わなかったことだ。
あの上田で過ごした日々が、健二の中には今なおしっかりと根づいている。こういう時、健二はそれを実感する。
(いやいや、ぜいたく言ってる場合じゃないよな。少なくとも、ひとりで食べるわけじゃないんだし)
両親が自分のことを気にかけてくれていることは、健二にもちゃんとわかっている。弁当にまでは手が回らないとはいえ母親はきちんと健二の分の夕食を毎日用意してくれているし、単身赴任中の父親だってマメに連絡はくれていた。ただ、やはり一緒に住んではいない父親と多忙な母親が共に揃っていることは少ないし、一緒に食事をすることは少ない。
上田に行く前はそれが普通のことで、寂しいなどとは思わなかった。でも、どっぷりと家族の賑やかさと温かさを体験してしまったから、今さらのように寂しさが襲ってくる。
ただ、それと同じくらいに、あまり密接な距離にいるとは言い難い両親が自分に向けてくれる愛情も、前以上に感じ取れるようにはなってきた。それが嬉しい反面、寂しさも募っているのだろうけど。
そのせいもあるだろう。たとえコンビニ弁当や調理パンがお供だとしても、室温が決して快適とは言い難いとはしても、ここには佐久間がいる。ひとりではない。一緒に、ご飯を食べてくれる人がいる。
その事実に、なぜか頬がゆるむのだ。ここ、数日。
「弁当、残ってるかな?」
「どーかね……? ま、俺はコーヒー牛乳さえあれば」
「ほんと好きだな……」
そんな他愛のない会話をしつつ、ずっと座っていた椅子から立ち上がる。立ち上がってみると、改めて身体の節々が妙に痛んだ。やはり、パイプイスで長時間の作業に挑むのはあまりよろしくない。だからといって、佐久間のように私物のOAチェアを持ち込むのはどうか。
健二にとってはそれなりに切実な、でもやはり冷静に考えればどうでもいいようなことへと思考を巡らせながら、健二はポケットの中に薄い財布を突っ込んだ。
そして、部室のドアへと向かって足を踏み出そうとした時。
「健二くん、いるー?」
「え?」
──なぜか、ドアのほうが先に開いた。
四角く切り取られた空間から顔を覗かせているのは、もう見慣れた姿だ。久遠寺高校の制服を着ているのは久しぶりな気もするが、なんだかんだで2週間ほどを共に過ごした憧れの先輩。
「あ、夏希先輩」
「いた!」
目を瞬かせてその名前を呼べば、夏希はぱっと顔を輝かせる。嬉しそうなその笑顔は、はっきりいって眩しい。
でも、その笑顔が見られることが、何よりも嬉しかった。このいざというときの度胸にあふれた憧れの先輩は、健二にとっては誰よりも幸せになってもらいたい大切な人だ。
「お、夏希先輩?」
健二の後ろから、佐久間もひょいと顔を出す。夏希はそれを見て、ようやく佐久間の存在に気づいたらしい。
「あれ、佐久間くんもいたんだ」
「そりゃないでしょ、先輩……」
「あはは、冗談、冗談だってば。部室の主がいないわけ、ないもんね」
あっさりと佐久間を撃沈させて、夏希は楽しそうに笑っている。
さて、佐久間のフォローをすべきか、否か。とはいえ健二にフォローされても、佐久間的にはよけいにむかつくだけなのではないか。
「ねえ」
「へ」
そんなある意味どうでもいいことで悩んでいた健二の前に、いつの間にか夏希がいる。
つい先刻までドアのところにいたのに、さりげなく近づいてきていたらしい。目を丸くする健二の目を真っ正面から見据えて、夏希はほんの少し首を傾げた。
「ところで健二くん、お昼もう食べた?」
「いえ、まだですけど」
「ホント!? じゃあ、もうお昼ご飯、買っちゃった?」
「いえ、まだですけど……」
「ホントに!? よかった!」
「先輩?」
話が見えなくて、丸くしていた目を今度はせわしなく瞬かせる。そんな困惑した様子に、夏希は気づいてくれたようだ。
「じゃーん! えへへ、お昼一緒に食べよ! お弁当、健二くんの分も持ってきたから」
弾ける笑顔で夏希が差し出したのは、ひとり分にはいささか大きすぎる弁当箱。というよりは、重箱。
おそらくは夏希の母、雪子の力作だろう。ぽやぽやとした雰囲気を持つあの女性は、どう見ても猪突猛進型の夏希とはあまり似ていなかった気がする。
マイペースさは良い勝負かもしれないが。
──と、そこまで考えて、健二はやっと我に返った。
今、夏希は何と言った?
一緒に食べよう、はともかく。
……健二の分も、お弁当を持ってきた?
「ええっ!? い、いいんですか!?」
「いいもなにも、私が健二くんと一緒に食べたくて持ってきたんだよ。だから、ね?」
甘えるようにそんなことを言われてしまったら、まさか『遠慮します』なんて言えるわけがない。
「は、はははははい、よろしくお願いしまあああす!」
「やった」
嬉しさのあまり動揺して叫んでしまったが、夏希はやっぱり嬉しそうに笑ってくれた。その様子にまた、幸せな気分になる。
夏休みが始まってからまだ1カ月も経っていないというのに、人間変われば変わるモノだ。
佐久間に向かって延々と愚痴っていたあの日々が、なんだか遠い昔のように思える。
「……んじゃ、俺はパンでも買ってくっかなー……」
「あ」
そこで、ふと気づいた。そう、佐久間だ。
思いっきり佐久間の存在を無視してしまっていたことに気づいて、健二は心の中でだけ佐久間に謝罪する。
だが、どうやらその必要もなかったようだ。
「あ、待って待って。佐久間くんの分もあるよー」
「えっ、ガチで!?」
確かに、三段重ねの重箱なら、3人分くらいは余裕だろう。
いくら食べ盛りが揃っているとはいえ、量的には3人でも手が余りそうだ。
しかも。
「だって、健二くんがいるとこにはまず佐久間くんいるだろうなって思って」
夏希が、そんなことを言うから。
つい、健二は笑ってしまった。
「いやー、ジャマして悪いな、健二!」
「ホントだよ」
「あ、言ったな、この!」
「うわわわわ、ギブ! 佐久間、ギブ!」
がしっと首を佐久間の両腕で固められて、健二は情けない悲鳴を上げる。
もちろん、口ではあんなことを言ったものの、健二の顔には嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
本当は、邪魔だなんて思っていない。きっと、佐久間にもそれは伝わっている。遠慮なしに軽口を叩ける、こんな関係も健二が絶対になくしたくないものだ。
「ほら、じゃれてないで食べるよー」
「は、はいっ!」
「へーい」
狭くて暑くてごみごみとした部室だって、今だけはどこよりも健二に幸せをくれる楽園。
蓋を開けた重箱の中には、色とりどりの幸せが詰まっている。
もう二度と体験することなんてないだろうあの夏の日から、そろそろ3週間ほど経とうとしていた。
主に佐久間が不憫な話。
佳主馬の出番までたどり着けなかった……すいません佳主馬は後半で。
うーむ、これに関しては女性向けを謳うのが詐欺な気がしてきました。
なんでここで前編終わってるかというと、時間切れだからです。
そして少しずつじりじりと長くなっていってるあたり、私に話を短くまとめる才能はない。