続・1度目の夏

中編

「あーもー、勉強なんてやんなっちゃう」

 焦げ目ひとつなくきれいに焼き上がった玉子焼きを箸でつまんで、ひとつ年上の憧れの先輩は大きなため息をつく。
 夏休みの最中に受験のための特別講習だなんて、たしかに降って湧いた災難以外のなにものでもない。でも、健二の目の前にいるこの篠原夏希先輩は、容姿端麗の上に文武両道だと評判だったではなかろうか。
 その夏希をして、嫌になると言わしめるとは。

「そんなにしんどいんですか? 夏期講習って」
「だって、教室暑いんだもん」

 これまた、至極まっとうな意見だと言わざるをえない。大半の特別教室にはエアコンが備え付けられているものの、教室にはそんなものありはしないのだ。あったらあったで、もしかしたら夏休みというものがなくなってしまうのかもしれないが。
 とにかく、この物理部の部室よりはマシだろうが、窓を全開にしていても朝から夕方まで受験勉強に明け暮れるのは苦行だろう。

「どーせなら、図書室とかでやってくれりゃーいいのに」
「ほんとだよー」

 海苔が巻かれたおにぎりへと手を伸ばしながら佐久間が言葉を続ければ、夏希もふたたびため息をついてから玉子焼きを口の中に放り込んだ。途端に少しだけ眉間のしわがゆるむあたり、やはりみんなで食事というのは人の心を和ませるためには効果的なのかもしれない。
 ぼんやりとそんなことを考えながら、健二も箸でつまんだ白身魚のフライを口に入れる。冷めても美味しいそのフライは夏希の母である雪子の自信作だと、先刻教えてもらった。

「そういえば、夏希先輩はもう部活に参加してないんでしたっけ」

 食事中に喋る場合は、ものをきちんと噛んで飲み込んでから。幼い頃に母親から受けた教えを、今でも忠実に健二は守っている。

「一応はね、受験生だもん。でも、たまに練習は見に行ってるよ。今、合宿中だし」
「そういえば、今週は剣道部の番でしたっけ」
「そうそう」

 体育会系の部活が盛んな久遠寺高校では、毎日のようにどこかの部活が校内で夏練や合宿を行っていた。そのせいもあって合宿施設は常に満杯なので、ローテーションが組まれている。今週は、どうやら剣道部の番らしい。面倒見のいい夏希のことだから、おそらくは講習が終わったあとに後輩たちの練習を見ていくのだろう。

「暑いのに、みんな大変だなあ……」

 しみじみと呟きながら、ペットボトルのウーロン茶に手を伸ばす。暑い部室に置かれていたそれは冷たさをもたらしてはくれなかったけど、食事の最後をしめくくる味としてはなかなか悪くない。

「ごちそうさまでした」

 三段重ねの重箱を広げるために無理矢理片付けた、というよりは置かれていたものを押しやったテーブルの上になんとか割り箸を置くと、健二は行儀良く手を合わせた。
 本来は、コンビニ弁当ですませるはずだったのだ。それに比べたら、なんというランクアップ。本当に、夏希の家には足を向けて寝られない。

「ありがとうございます、夏希先輩。ほんとに美味しかったです」
「えーっ、もう食べないの? まだこんなにあるのに」

 だから感謝の気持ちを込めて頭を下げたのに、夏希は不満げに口を尖らせた。

「も、もう満腹ですって。なあ、佐久間」
「俺も相当腹一杯です……」
「えー、少食だなあ」
「す、すみません……」

 実際は、決してそんなことはない。健二も佐久間も大食らいというわけではないが、高校生男子としてはちゃんと人並みに食べている。
 重箱の中身があまり減ったように見えないのは、ひとえに元の量が多すぎただけだ。

「でも、無理に食べさせるわけにもいかないもんね。ていうか、私もお腹一杯……どうしようかなあ、これ。夏だし、さすがに夜まではもたないよね」

 まだ軽く2、3人分は残っている重箱の中身を見下ろして、夏希がため息をつく。せっかく自分たちのために作ってきてくれたものを残してしまうのは健二も心苦しいし非常にもったいないが、それ以上に今は腹というか胃が苦しい。
 ……と、そこまで考えて、気づいた。

「あ、そうだ。剣道部のみなさんに差し入れするのはどうですか?」

 よくよく考えれば、朝からハードな練習をこなしている食べ盛りの学生たちが、体育館にわんさかいるではないか。

「……あ、そうか! 健二くん、頭いい!」

 最初は目を丸くしていた夏希も、その有用性に気づいたのだろう。ぱっと顔を輝かせると、弾けるような笑顔を見せる。
 その眩しすぎる笑顔に少しだけどぎまぎしていたら、ぽんと肩を叩かれた。
 誰かと思えば、もちろん佐久間だ。だが、その顔に浮かんでいる表情がなんとも言い難い。まるで、おかしなものを発見してしまった、とでも言いたげな顔で健二を見ている。

「どうしたんだ、健二。おまえが数学以外に頭働かせるなんて……」

 しかも、言うに事欠いてその言いぐさだ。

「どういう意味だよ、佐久間」
「まんまだよ」
「…………」

 とはいっても、悔しいが健二にはひとことも反論できなかった。佐久間の言ったとおりだと、健二自身そう思うからだ。

「はぁー、やっぱ夏希先輩が絡むとおまえ、頭の回転よくなんの?」
「そ、そういうわけじゃ……っ……、あれ?」

 ない、ような。そうとも言い切れないような。
 少なくとも、自分ひとりにしか関係ないことであれば、そもそも頭を使おうとも思わなかったに違いない。そう、数学に関すること以外には。
 というか、そういうことを夏希の前で言わないでほしかった。こう、切実に。

「えー? 健二くんはいつだって頭いいよね」

 幸か不幸か、夏希は佐久間の発言の意味を深く考えはしなかったようだ。首を傾げながら、ほうじ茶のペットボトルを傾けている。
 これまた、安堵すべきなのか惜しく思うべきなのか、健二にはいまひとつよくわからない。ただ、しばしのタイムラグを経て、自分が褒められたことだけは理解してしまった。

「え……ええええ!? そ、そそそんなことはないですっ!」
「だってほら、数学とか。暗号、すごい速さで解読しちゃったし。あれ、ほんとにすごかったよー」
「す、数学だけです」

 学園のマドンナとまで言われる相手に手放しで、しかも満面の笑顔で褒められるなんて経験、生まれてこのかた片手の指で数えられるほどもない。というか、もしかしなくてもおそらくは夏希が最初で最後だろう。

(こんなこと二度とないんだし、素直に受け入れて喜ぶ……なんてできるわけないだろ!?)

 とは思うもののそれを口に出すこともできず、結局心の中で健二がそう叫んだときだ。

「おーい、健二。鳴ってるぞ」
「え? あ」

 佐久間に指差されて、健二は自分の携帯がチカチカと瞬きながら震えていることに気づいた。
 着信音が耳に入らなかったところをみると、メールだろう。手を伸ばして携帯を開けば案の定、待ち受け画面ではタヌキにも見えなくはない手も足も短めなリスのアバターが、自分の身体と同じくらいの大きさがあるメールを受け取ろうとしているところだった。

「え」

 だが、健二の目が釘付けになったのはそこではなくて。

「佳主馬くん?」

 リスのケンジがメールを受け取ろうとしている相手が、赤いダウンジャケットを着こなすやたらと格好いいウサギ、キング・カズマだった事実に、だ。

「佳主馬?」
「キング?」

 ほぼ同時に、健二の両側からそんな声が聞こえてくる。夏希は重箱を元通りに重ねようとしかけていた手を止めて、佐久間は飲みかけのペットボトルからわざわざ口を離して、健二が手にした携帯を見つめていた。

「なんだよ健二、おまえキングとアドレス交換したの? うっらやましいヤツだなあ」
「佳主馬のほうからメール送ってくるなんて、めずらしいなあ。私、一度ももらったことないよ……って、そういえば、あれ? 帰りの新幹線でも佳主馬からメール、来てたよね。健二くんに」
「よく覚えてますね……」
「だって、ほんとめずらしいんだよ」

 十三歳の少年にしてみれば、いくら親戚とはいえ五歳も年上のお姉さんに自分からメールを送るのは、それなりに勇気がいることなどではないか。一瞬そんなことを思いはしたが、佳主馬は健二と違ってそんなヘタレなことは言い出さない気もした。

「で、佳主馬、なんだって? 読んであげてよ、佳主馬、ほんとに健二くんのこと気に入ったんだあ」
「あ、そうでした」

 夏希に急かされて、健二は慌てて携帯のボタンを操作する。届いたメールを開封すると、そこには短く一文。

『今、バイト中?』

 それだけ、書かれていた。

「……特に用があるわけでもないみたいです?」
「あれ、そうなの?」
「はい……あれ、いやでもどうかな」

 いやでも、もしかしたら、ああ見えて意外と人には気を遣う佳主馬のことだ。もし本当に用があったとしても、健二が忙しいかどうかを事前に確認してから本題に入ろうとしているのかもしれない。
 まだ中学生なのに大人たちの間で仕事もこなしたりしているせいか、彼はそんなところが妙に大人びている。年齢通りのこどもならそんなことを考えたりしないだろうが、佳主馬であればそこまで考えて行動していてもまったくおかしくない気がしていた。

『今は休憩中だよ。夏希先輩がお弁当持ってきてくれたから、佐久間も一緒に昼ご飯食べてた。なにか用事でもあった?』

 だから、返信の最後にそんなことを書き添える。健二が佳主馬の役に立てることなんてほとんどないけど、とりあえず数学の宿題くらいは教えられるのだ。実際、あの上田の家では何回か佳主馬に夏休みの宿題を教えたことがあった。
 佳主馬のような子に頼られるのは、やはり年上として嬉しい。健二自身、自分にそんな価値はないと思ってはいても、すごいと思った相手から気にかけてもらえるのはまた別に喜びを与えてくれる。
 そう思わせてくれるのは佳主馬であり、夏希であり。共に視線をくぐり抜けた陣内家の皆であり、そして一応は佐久間もその中に入るのかもしれない。

「そういや、キングで思い出したわ。OMCのチャンプって、結局今は不在のままなんだよな」

 その佐久間が思い出したように口にしたのは、やはり佳主馬のアバターであるキング・カズマのことだ。

「あ、うん。今度、チャンピオンシップが開催されるらしいよ」
「なに。それも、キングからの情報?」
「え、そうだけど」
「ほー」
「なんだよ」
「や、べつになんでも」
「意味わかんないから」
「なにこだわってんの。健二らしくない」
「俺らしくないって言われても」

 そんなことを喋っているうちに、また携帯が軽快な音を立てる。メールの着信音だ。
 開きっぱなしになっていた携帯の待ち受け画面には、またしてもキング・カズマが立っている。長い耳が揺れている姿を目にするとなぜか自然とゆるんでいく頬を少しだけ意識的に引き締めてボタンを押して操作すると、またしてもそう長くはない文章が表示された。

『夏希姉ちゃんが弁当? 料理できるの』

 しかも、なかなか返答に困る反応だ。

「あ……はは、はは……」
「健二くん?」
「あ、いえ、なんでもないです」

 とりあえず、夏希には教えないほうがいいだろう。そう判断して、健二は慌ててメールの返信画面を開く。
 ──そして、ふと思いついた。

「先輩、写真撮らせてもらっていいですか? あ、佐久間も」
「え? 私の?」
「って、俺も?」

 そんな健二のお願いは、さすがにあまりにも脈絡がなかったようだ。思いつきを速攻で実行しようとしたら、夏希にも佐久間にも目を丸くされた。

「お弁当と一緒に、佳主馬くんに写真送ろうかなって」

 一緒に、こうやって大きな重箱を囲んで昼ご飯を食べることができた事実が嬉しかったのだと、健二は他人事のように思う。
 なんとなく、それを佳主馬に伝えたかったのだ。それもあって、少し照れくさかったけど、画像として残しておきたくなった。
 ただ、それを説明したところでわかってもらえるとは思えない。だから、どう説明しようかと健二は一瞬頭を悩ませたのだが。

「あ、そうだね。佳主馬に自慢しちゃおう」
「自慢って」
「こっちはみんなで仲良くやってるよーって」

 楽しそうに満面の笑みを見せた夏希が、目を丸くした佐久間に向かってそんな主張をしてくれたので、結局は説明せずにすんでしまった。

「先輩、けっこう鬼ですね」
「そんなことないよー。じゃあ、健二くんはこっちで佐久間くんはこっちね」

 佐久間のツッコミをあっさりとたたき落として、夏希がてきぱきと指示を出す。中途半端に蓋が閉められていた重箱もふたたび開けられ、半分くらいにはなったもののまだまだ鮮やかな彩りが顔を覗かせた。やはり、美味しそうだ。

「え、でも、僕は写真撮らないと」
「携帯のセルフタイマー使えばいいだろ」
「あ、そうか。ええっと……あ、これか」

 そういえばそんな機能もあったことを、佐久間に言われて思い出す。カメラの機能ボタンを適当に押してセルフタイマー機能を発見すると、手早く設定をすませてから机の上に積み上がっている本の上に置いた。
 高さはこのあたり。カメラの角度も、これで大丈夫のはずだ。

「えーと、あと30秒です」
「ほら、健二くん、早く早く」
「は、はい」

 夏希に手招きされて、健二は慌ててふたりの元へと戻る。戸惑うことも躊躇することもなく健二の左腕を掴んでくる夏希の右手に、一瞬顔が赤くなりかけたのは秘密だ。

「って、あれ?」

 そして、健二はそこでようやくひとつの違和感に気づいた。
 男子がふたりに女子がひとり。普通に考えれば、ここは夏希が真ん中を陣取るべきではないだろうか。こう、いろいろな事情をかんがみて。
 なのに。どうして、健二の左側に夏希、そして右側に佐久間がいるのだろう。

(あ、あれれ??)

 健二としてはなにも損はしていないが、佐久間はさぞかし不満だろう。だが、ちらりと横目で見た佐久間の表情に、そういうマイナスの感情は見られない。
 それどころか、どこか楽しげに見えた。

「はい、笑ってー!」
「あ、は、はいっ」

 ただ、それについてちゃんと考えている余裕はなくて。

(ま、楽しそうだからいいか)

 夏希のかけ声に、健二は笑顔を作る。
 ──写真を撮りたくなった気持ちを思い起こせば、笑うのなんて、息をするよりも簡単だった。

『お弁当は雪子さんが作ってくれたみたいだから、夏希先輩が料理できるかどうかはちょっとわからないな。一緒に写真送るね』

 そして、返信内容を書いて送信する。もちろん、このために撮った写真を添付するのも忘れない。
 ──返信が戻ってきたのは、先ほどよりも早かった。

『夏希姉ちゃんならゆで卵が精々じゃないの。健二さんがお昼食べ終わったら、電話してもいい?』

 なぜか、一緒に送ったはずの写真については、一言も言及されなかったけど。
 それはともかく、そんなことをわざわざ聞いてきてくれるのが、なんだかとても嬉しくて。

『もちろんいいよ。というか、もう食べ終わってるからいつでもいいよ』

 少し浮かれてそんな返信を送ったことに、佳主馬が気づいていなければいい。
 健二は、そう思った。




ど、どうでもいい内容なのに長い。

この話は『ワールドクロック』シリーズの続きというか裏みたいなシリーズなので、じつは佳主馬→健二なんですけど、健二さんがまったく気づいてくれないのでカップリング色がどこにも見えません。強いて言えば夏健? え、どこが?

というか、佳主馬ごめん。出番ほとんどなかった。
日常で健二さんと佐久間がそろっていると、おそろしい勢いでぐだぐだになっていくことはよくわかりました。主に私の脳内が。
終わらない。内容ないのに。

後編は佳主馬ばっかり……だと、思います……。